日本のテレビ技術開発のリーダーとして活躍した高柳健次郎も、幼い頃は病弱で勉強も苦手だったという。「人にはそれぞれ才能がある。それを生かして世の中のためになるような人間として生きること」を意味する『天分に生きる』が、彼の好きな言葉だった。
私たちの暮らしに欠かすことのできないテレビ。大正時代、世界では多くの科学者がテレビジョンの開発を夢見て、競い合うように研究に取り組んでいました。そんななか、世界に先駆けて、ここ浜松で電子式テレビジョンの実験が行なわれ、ブラウン管の上にはっきりと「イ」の字が映し出されました。時は1926年(大正15年)12月25日、大正天皇崩御の日。電子式テレビジョンの誕生は、まさに昭和という新しい時代の幕開けの象徴でもあったのです。
当時の最先端をゆく電子式テレビジョンの実験に成功した科学者。彼こそが、「テレビジョンの父」と呼ばれる高柳健次郎です。
高柳健次郎は1899年(明治32年)、浜名郡和田村(現浜松市)で生まれました。幼いころの健次郎は体が弱く、運動も勉強も苦手でしたが、機械の仕組みを考えたりするのは大好きな少年でした。やがて教師をめざすようになった健次郎は、静岡師範学校(現静岡大学教育学部)に進学。物理学、殊に電子による蛍光発光に強い興味を持ち、東京高等工業学校(現東京工業大学)に進みます。そして、「今は知られていなくても、10年後、20年後の日本に欠かせない技術を目指せ」という学長の言葉に深い感銘を受け、早速、研究テーマを探し始めました。
まずは海外の状況を知ろうと、フランス語やドイツ語を勉強し、米・英・仏・独の電気関係の専門雑誌や科学雑誌を読み漁ります。そんなある日、本屋で立ち読みしたフランスの雑誌のなかに「未来のテレビジョン」という漫画を見つけました。まだ空想に過ぎなかったものの、「ラジオ放送が無線で声を送れるのなら、映像も可能ではないか」と、自ら「無線遠視法」と名づけたこんな考えを膨らませていた健次郎は、漫画に登場していた「テレビジョン」に飛びつきました。と同時に、強い焦燥感にかられました。「ヨーロッパの科学者はもう何か始めているのかもしれない。私もうっかりはしていられない」。こうしてテレビジョンの研究に取り組むことを決意したのです。1923年(大正12年)のことでした。
翌1924年(大正13年)、浜松に新設された浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)の助教授として赴任した健次郎は、校長から何を研究したいかと尋ねられ、こう明言しました。「テレビジョンです。東京の歌舞伎を浜松の家庭でみることができるような技術です」。まだラジオ放送も普及していなかった当時、テレビジョンの研究など普通の人にはまるで想像もつかないものでした。
校長は驚きながらも健次郎の考えに理解を示し、研究体制を整えてくれました。こうして健次郎は、創造的な研究を奨励する校風にも後押しされ、本格的なテレビジョンの研究に没頭することとなりました。
研究を始めたものの、最初のうちは失敗の連続で、ついには研究室も取り上げられてしまいます。それでも健次郎は諦めませんでした。研究費が底を尽くと、結婚したばかりの妻の持参金で真空管を購入したり、必要な道具はできる限り手づくりするなどして研究を続行。そして1926年(大正15年)、ついにニポー円板による撮像とブラウン管による表示方法で「イ」の字の表示に成功したのです。電子式テレビジョンの最先端をゆく実験でした。
「イ」の字の表示に成功
雲母板に墨で書かれた「イ」の字と、ニポー円板送像方式でブラウン管上に映し出された「イ」の字。
その後、1930年(昭和5年)の天覧を機に、予算、人員が増強され、テレビジョンのさらなる向上のためのプロジェクトチームが組まれました。互いの研究や報告に対し意見を述べ合い、個人個人の力を集結させた充実した研究の結果、1935年(昭和10年)、アイコノスコープによる撮像方式を採り入れた全電子式テレビジョンを完成させました。
天覧の栄誉に浴す
天覧の栄誉に浴した浜松高等工業の送像機と受像映像。
このころからテレビジョンの将来性に注目が集まり、1940年(昭和15年)に開催が予定されていた東京オリンピックのテレビ中継が国家プロジェクトとして持ち上がりました。健次郎はNHK技術研究所に出向して、日本のテレビ技術開発のリーダーを務め、現在のテレビ規格に近い走査線数441本・毎秒25枚の技術を完成させたものの、第二次世界大戦の勃発により計画は中止。健次郎の研究も中断を余儀なくされてしまいます。
テレビジョン放送車
高柳一門とともにNHK技術研究所入りしたテレビジョン放送車。
戦後、健次郎は日本ビクター(株)に入社してテレビジョンの研究を再開。テレビジョンの技術革新とテレビ放送の実用化に尽力し、1953年(昭和28年)のテレビ本放送実現を支えました。1960年(昭和35年)にはカラーテレビの放送も始まり、健次郎はこの間、日本のテレビ開発およびテレビ産業技術のリーダーとして活躍を続けました。
また、1959年(昭和34年)には、世界に先駆けて2ヘッド方式のビデオテープレコーダーを発明し、ホームビデオの世界的普及とVTR産業の発展にも大きく貢献しました。こうした功績により、1981年(昭和56年)、文化勲章を受章。1988年(昭和63年)には、日本人としては初めてアメリカSMPTE(映画テレビ技術者協会)の名誉会員に選ばれました。さらに1989年(平成元年)には、勲一等瑞宝章を授与されています。
日本におけるテレビジョン技術の礎を築き、テレビ産業の発展を支え続けた高柳健次郎。後に教育・人材育成にも力を尽くした彼は、自らの経験からこう説いています。「先見性を持ち、ひたむきに努力すること。ひとりの天才によって科学技術が進歩する時代は終わり、集団討議によるステップ・バイ・ステップの研究でこそ大きな成果が期待できる」
晩年もカラーテレビの画像向上について研究するなど、1990年(平成2年)、91歳で天寿を全うするまで、健次郎のテレビジョンへの情熱は決して冷めることはありませんでした。
【参考】
「テレビのはじめ」(浜松電子工学奨励会)
「浜松ものづくり人物伝」(浜松市教育委員会)
「浜松百撰」2003年2月号