写真は、戦後のものであると思われるが、戦前からの若い時代の写真を見ても、ロイド眼鏡をかけ、生真面目そうな表情は変わらない。こと楽器に関しては、異常とも思えるほどの執着と天才的なアイデアを発揮した小市も、その芯の部分は、職人的なモノづくりに対する生真面目さによって裏打ちされていたのだろう。
浜松が、楽器製造産業のメッカとなったのは、日本楽器製造株式会社(現ヤマハ)の前身企業の創設者である山葉寅楠氏だけではなく、日本におけるもうひとつの楽器メ−カ−の雄、株式会社河合楽器製作所の創業者である河合小市氏の活躍があってこそでした。後にライバル会社となる企業を創設した2人。その関わりあいは、師弟ともいうべき強い絆で結ばれた経営者と技術者としてでした。山葉寅楠が設立した浜松の『山葉楽器製造所』に小市が入所したのは明治30年、11歳のときです。
河合小市は、明治19年1月5日、江戸時代から続く車大工『するがや』の家に生まれました。父谷吉は、腕に定評のある職人で、浜松名物大凧の「糸車」を考案するなど、発明の才にも恵まれた人でした。31歳で病死した父親の才を豊かに受け継いだのが、その後母の手ひとつで育てられた小市です。物事の仕組みや成り立ちに興味を持つ小市の気質は、幼い時期から顕著でした。
尋常小学校4年を卒業して間もなくのある日のこと。外を走る客馬車に見入り、木切れを集めて見事に小型の客馬車を作り上げ、犬にひかせて乗り回って大人たちを驚かせたという逸話が、小市少年の探究心の豊かさ、物づくりについての天才を物語っています。特にメカニックへの興味と探究心は際立っていました。オ−トバイや車、楽器など、機械製品のパイオニアを何人も排出している浜松。メカニックについての創造性は、この地に育つ人の特徴的な気質であると言っても過言ではないかも知れません。
河合小市も例外ではなかったのです。
アメリカ製のオルガンを修理したことをきっかけに、楽器製造に興味を持ち、苦心の末に日本で初めてオルガンの手造りに成功し、小さな製造所を開いていた山葉寅楠のもとで楽器制作ひと筋の人生を歩みはじめたのは、そうした小市の生まれ持った才が萌芽した頃でした。「音を出す機械を作るそうな」。小市の才能を知り、入所を推挙した人がこう言ったとき、少年は好奇心で目を輝かせました。
小市の才能は、寅楠の進取の精神と指導によって磨かれ、小市の物づくりへの探究心は寅楠が啓発されるほどでした。この2人の切磋琢磨が日本の楽器製造の創生期にさまざまな輝かしい発明と技術革新をもたらすのですから、その出会いは運命的だったといえるでしょう。
創業当時の正門前で
1927(昭和2)年、小市を中心に集まった仲間たちは、浜松市寺島町200番地(現本社所在地)に間口12メートル、奥行き8メートルほどの工場を建てる。
アップライトピアノA型
河合楽器研究所設立の翌年、1928年につくられた標準型のアップライトピアノ第1号、堅型A号。550円であった。
アップライトピアノ「昭和型」
河合小市のつくったピアノということ、そして350円という破格の値段で、大きな反響を呼んだ。
所員の中でも、群を抜いた力量を発揮した小市の名は、「発明小市」としてたちまち知られるようになります。
明治33年に山葉楽器製造所で完成した第一号の国産ピアノは、アクション部分、つまり、打鍵するとハンマ−が弦を叩くというピアノの心臓部のメカは、輸入品でした。
当時は海外の技術も公開されておらず、どうしてもアクション部分を作れずにいたのです。寅楠は、国産のアクションの開発という難題を、小市に任せます。小市は、文字通り不眠不休で製作にとりくみ、ついに自分の手でアクションを作り上げます。そのことを報告に来た小市の手を、寅楠は深い感動で握りしめました。小市のアクションを使った純国産ピアノが完成したのは、明治36年。それは山葉楽器製造所にとってだけではなく、日本の楽器製作の大きな前進でした。
大正5年、師であり、父とも慕った山葉寅楠が死去。その悲しみを乗り越え、海外の技術見聞の旅などで刺激を受けて、小市は、日本楽器と改称した製造所の技術部門の最高責任者へと上りつめていきました。しかし、やがて大きな転換期が訪れます。日本労働史上に残る大きな浜松市の争議に、日本楽器もその渦に巻き込まれ、寅楠の後を継いだ新社長が辞任。小市もこの争議の責任をとるべきだと考え、会社を退職します。そして、昭和2年に小市を慕って集まった技術者とともに河合楽器研究所を設立しました。翌年にはグランドピアノの製造を開始し、4年には河合楽器製作所と改称。小市氏の名声を知る楽器販売所が次々と取引を希望して業績は年々増大し、以降河合楽器は、日本楽器とともに日本の2大楽器メ−カ−として競い合いながら、質の高い楽器を生み出していきました。
河合小市は、まぎれもなく天才肌の人でした。初期の頃は、自らのさまざまな発明品の設計図を、製図の知識も機器もなしに、鉛筆ともの差しだけで精密に書き上げていました。その天ぶの才もさることながら、それを凌いで際立っていたのが、物事への粘り強い取り組みと、決して諦めようとしない執念に似た強い精神です。
グランドピアノの第1号
1928年に発売されたグランドピアノ平台1号。950円。
河合小市の藍綬褒章受賞記念写真
業界初の藍綬褒章受賞後、小市は工場に全社員を集めて「この光栄は私1人ではなく、みなさん全部の光栄であります。ただ、私はみなさんの代表者として、いただいてまいったのであります。」と挨拶した。
かつて、山葉寅楠が渡米みやげに、穴を開ける機械を持ちかえり、英文の説明書に従って操作したけどついに動かずにあったのを、英文を読めない小市が引受け、工場内に寝具まで持ちこんで、朝から晩まで機械と格闘。ついにそれを稼働させたなど、天才と執念を物語る逸話にはこと欠きません。ヒントを得ると、その場所が工場であれどこであれ、寝食を忘れて他を省みない、まさに機械の虫、楽器の虜でした。
小市は、ピアノの調律技術も非常に優れていました。これも独学で原理を取得するという努力のたまものでもありましたが、抜群の音感の持ち主でもあったことの証でもあります。
こんな逸話もあります。
高松宮殿下が工場見学へ来られたとき、小市は独自に身につけたピアノ演奏の腕前を披露。その演奏に感心した殿下から、「単に技術屋にあらず、音楽家である」とのお言葉をたまわったのです。発明家であり、エンジニアであり、物づくりに執念を燃やす職人であり、楽器づくりひと筋に心血を注ぎ『楽器王』と呼ばれた河合小市の奥底には、優れた芸術家の魂が宿っていたのでしょう。