なぜ、浜松は「ものづくり」が盛んなまちになったのか?その歴史をひもといてみよう
東京と大阪のほぼ中央に位置する浜松は、その地理的条件と温暖な気候、さらに天竜川に代表される豊富な水資源などに恵まれ、古くから「ものづくり」が盛んなまちとして成長してきました。また、繊維、楽器、オートバイといった三大産業に見られるように、地域内で生まれた技術、技能を発展させ、世界的なリーディング・カンパニーを輩出しています。近年では、光技術、電子技術関連などの先端技術産業も急速に発展し、国際的に高い評価を得ています。
このような活発な産業のルーツは、遠く江戸時代までさかのぼります。当時の織物、製材、木工加工産業が浜松の基盤を作りあげ、さまざまな機械を開発した発明家や事業を起こす起業家が相次いで誕生しました。そして、織物から自動織機へ、製材から木工機械へと産業が進化。戦後になって、エンジン付きの自転車がオートバイへ、さらに四輪の自動車へと躍進します。三大産業を支える技術として、NC工作機械や金属製品などの周辺技術も高度に磨かれていきました。
このように、さまざまな技術が積み重ねられていくことで、腕のいい技術者、職人たちが浜松に集まり、さらに新しい産業が生まれていったのです。そして現在は、蓄積されてきた工業技術と最先端の光技術を結びつけて、これまでにない製品を生み出そうと、新しいプロジェクトが進められています。未来の「浜松発!」を生み出すための、ものづくりへの挑戦が始まっているのです。
繊維
1890 | 豊田佐吉が、木製人力織機を発明し、初めての特許をとる。 |
---|---|
1896 | 豊田佐吉が日本で最初の動力織機を発明した。 |
1924 | 豊田佐吉が完璧な自動織機を完成させた。(G型) |
1911 | 鈴木道雄が格子模様が自動で織れる織機を完成させた。 |
オートバイ・自動車
1936 | 鈴木道雄が自動車の試作に成功した。 |
---|---|
1937 | 鈴木式織機(株)(現スズキ)がオートバイのエンジンの試作に成功した。 |
本田宗一郎がピストンリングづくりに成功した。 | |
1946 | 本田技研研究所が自転車用補助エンジンを開発した。(通常バタバタと言われていた) |
1952 | 鈴木式織機(株)(現スズキ)がオートバイの「パワーフリー号」を発売。 |
1955 | 日本楽器製造(株)浜名工場(現ヤマハ発動機)が赤トンボと呼ばれたオートバイ「YA1」を開発。 |
鈴木自動車工場(株)(現スズキ)が軽四輪車「スズライト」を発売。 | |
1963 | 本田技研工業が軽四輪トラックを発表した。 |
1966 | 鈴木健治がつくった(株)遠州軽合金国産初のアルミホイールを開発した。 |
楽器
1887 | 山葉寅楠がアメリカ製オルガンを修理し、オルガン製作に成功した。 |
---|---|
1899 | 河合小市が「ピアノアクション」を発明した。 |
1900 | 山葉寅楠が国産ピアノ第一号を完成させた。 |
1902 | 日本楽器製造(株)(現ヤマハ)が国産初の電子オルガンを開発した。 |
光学
1926 | 高柳健次郎が世界で初めてブラウン管に「イ」の字を映し出し、テレビ送信実験に成功した。 |
---|---|
1928 | 堀内勝次郎の研究により、旭写真工業(株)が国産ロールフィルム第1号「菊フィルム」を発表した。 |
1935 | 高柳健次郎が世界に先駆けて全電子方式テレビジョンを完成させた。 |
1956 | 堀内平八郎の研究により浜松テレビ(株)(現浜松ホトニクス)が、光電子倍増管を開発。 |
その他
1890 | 石川倉次が発明した点字が日本式点字に正式に採用された。 |
---|---|
1900 | 服部倉次郎が浜名湖湖畔で養殖地をつくり、ウナギの養殖をはじめた。 |
1921 | 松島保平が金平糖製造機を生み出した。 |
1922 | 福永浅雄国産初の本格的旅客機「天竜10号」を完成させた。 |
1926 | メロン栽培で西尾良一が温室用ボイラーを完全燃焼装置を開発した。 |
1950 | 杉浦睦夫が世界初の胃カメラを発明した。 |
1971 | 村松啓次郎がウナギの養殖に、ビニールハウスによる加温養殖法を生み出した。 |