持ち前のパイオニア精神で企業を興し、自動車産業に進出してからも陣頭指揮を続け、生涯に120件を超える発明をするなど、豊田佐吉翁と並ぶ発明家としても知られた。また、1930年(昭和5年)には浜松市議会議員に推薦され当選。計8年にわたり市政にかかわり、公人としても活躍した。
「軽自動車売り上げ台数ナンバーワン」を誇り、世界的な自動車、オートバイメーカーとして広く知られているスズキ。創業者である鈴木道雄は、根っからのアイデアマンで、類まれなるパイオニア精神の持ち主でもありました。その生涯に120余にもおよぶ発明をしたという経歴からも、彼のあくなきチャレンジスピリッツを見てとることができます。
つねに「次」を目指して新しい道を拓き続けた鈴木道雄。挑戦の連続であった彼の半生を振り返ってみましょう。
1887年(明治20年)、浜名郡芳川村鼠野(現浜松市)の農家に鈴木道雄は生まれました。当時、その地域では工賃をもらって綿布を織る家が多く、道雄の母もそれを仕事にしていました。織機の音を聞いて育ち、秋になると母を手伝って綿を摘んでいた道雄少年が、後年、織機の発明に成功するのも、こうした故郷の土地柄が大きく関係していたのかもしれません。
1901年(明治34年)、14歳になった道雄は、浜松の大工職人の弟子となりました。腕利きの職人であった親方は彼を厳しく仕込みましたが、1904年(明治37年)2月、日露戦争が勃発。戦争の影響で建築の仕事が減ったため、やむなく足踏み織機の製作に転向した親方とともに、道雄もその仕事を懸命に覚えました。そして徒弟契約が終わる頃には、独力で木鉄混製の足踏み織機をつくれるほどの腕前となっていました。
こうして、道雄の運命は日露戦争によって方向転換を余儀なくされ、彼は習い覚えた織機製造の道を歩み出すこととなったのです。
独立か、他人の傘下に入るか。徒弟契約を終えた道雄に決断が迫られました。しかし道雄には思い立ったことをやり抜く強い意志と、信じたことに努力を惜しまぬ実行力、そして新しい工夫に挑むパイオニア精神がありました。どれも事業家には欠かせない資質です。そんな道雄の答えは明白でした。「独立だ」。これといった学歴も資金も、また有力な後援者もなく、あるのは徒弟時代にたたきこまれた多少の技術だけでしたが、彼の資質が挑戦への道を選ばせたのです。
こうして1909年(明治42年)、鈴木式織機製作所を創業。古びた蚕小屋を改造した工場で、道雄は己の信じた道を歩み出していきます。21歳、まさに裸一貫の船出でした。
鈴木式織機製作所店舗(明治42年当時)
浜名郡天神町村(現浜松市)で操業を開始した鈴木式織機製作所。生家からもらい受けた蚕小屋を移して工場とした。
彼がつくりあげた鈴木式織機の第1号機は、彼の母へ贈られました。さっそくその織機を使ってみた母は目を見張りました。それまでの織機より10倍も能率が上がったのです。鈴木式織機の評判はまたたく間に広がり注文が殺到。これに自信を得た道雄は本格的に織機の製作を開始し、数名の従業員を雇い入れました。
当時、道雄がつくっていた足踏み織機は、他社製品と比較しても格別特色があるものではなく、何とか「鈴木式」ならではの特色を打ち出そうと懸命でした。そんな折り、「縦横縞模様の織れる織機はないものか」という話しを耳にし、さっそく杼(ひ=よこ糸を通す小さな舟形の道具)の工夫に取り組み、約1ヵ月を費やして杼箱上下装置の着想を得ました。これは望みの縞柄が自在に織り出せるという当時としては画期的な装置で、1912年(大正元年)、実用新案として登録されました。生涯に120余の発明をした道雄にとって、記念すべき第1号の発明でした。
そして1920年(大正9年)、鈴木式織機株式会社を設立。戦後の恐慌下ではあったものの、特色ある鈴木式織機への影響は比較的少なく、業績は順調に推移していきました。さらに1929年(昭和4年)にはサロン織機を発明し、海外への輸出も伸ばしました。ちなみに、「サロン」(sarong)とはインドネシア等の民族衣裳で体に巻きつける布のことをいい、それを織るのに適した織機であったことからサロン織機と名づけられました。
A片側4梃杼織機(サロン織機)
東南アジアへも輸出され、世界に「スズキ」の名を広めたサロン織機。
その後もサロン織の難しさを一挙に解決するカード節約装置を発明し特許を取得するなど、道雄は次々と新たな製品を生み出していきます。また、1931年(昭和6年)に開催された浜松市制施行20周年記念全国産業博覧会に出展された2台の鈴木式織機が、それぞれ国産優秀賞を受賞。「鈴木式」の名を不動のものとしたのです。
普通の人であれば、これで満足するでしょう。しかし道雄は違いました。鈴木式織機は半永久的な寿命があったことから、織機製造だけを続けていてはいずれ事業に限界がくる。そう危惧した彼は消耗品の製造に踏み出すことを決意します。そして当時の技術力と国民経済の方向をにらみ、その対象を自動車にしぼりました。
「将来は必ず四輪車の時代がくる」。そう確信していた道雄は、それに先駆けてオートバイの開発に着手します。戦争でいったん研究は中断するものの、1952年(昭和27年)、自転車補助エンジン付きの「パワーフリー号」を、続いてオートバイ「コレダ号」を発売。1954年(昭和29年)には社名を鈴木自動車工業株式会社と改め、翌年に国産初の軽四輪乗用車「スズライト」を発表し軽自動車時代の先鞭をつけました。
パワーフリーE1型
世の中のバイクブームも追い風となり、売り上げを伸ばしたパワーフリー号。
コレダ125ST1型
発売とともに爆発的な人気を呼んだ、2サイクルエンジン搭載のコレダ号ST型。
軽四輪車スズライト
道雄の夢の集大成、スズライト。この後、国内大手自動車メーカーが続々と軽四輪車の製造に参入し、軽四輪ブームが到来した。
持ち前のパイオニア精神と恐るべき先見の明で、数十年にわたってかかわってきた織機製造の歴史に自ら終止符を打った鈴木道雄。四輪車で2サイクルエンジンを搭載したのもスズライトが初めてなら、エンジンを車の前に配置するとともに前輪駆動で車を走らせるFF方式をとったのもスズライトが最初。彼の夢の集大成であったスズライトには、今なお脈々と流れるスズキのパイオニアスピリッツの原点が集約されていたといっても過言ではありません。
【参考】
「70年史」(鈴木自動車工業株式会社)
「ひと・まち・80年、そして未来。」(浜松市)
「浜松ものづくり人物伝」(浜松市教育委員会)
「浜松百撰」2003年2月号