豊田 佐吉

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トヨタグループ 創業者 豊田 佐吉

技術立国をめざし、世界的な自動織機を創った発明王

豊田 佐吉

佐吉18歳の時、専売特許条例が公布され、以前から「国家に尽くしたい」と願っていた彼は、この話しを聞いて「発明を生涯の仕事としよう」と決意したという。その志と情熱は自動織機の発明にとどまらず、やがて自動車をはじめとする日本の産業の発展へと大きく広がっていった。

出身地:敷知郡山口村

織物産業のまちとして発展してきた浜松が、大きな影響を受けた発明家。それが、日本初の自動織機の産みの親であり、トヨタグループの創始者である豊田佐吉です。「世のためになる事業をしたい」と織機の発明に心血を注いだ佐吉は、数々の苦難を乗り越えて、ついに当時としては世界最高レベルの自動織機を完成させました。
日本の産業の将来を案じ、自らの創意と努力でその活路を拓いた豊田佐吉。愛国心に燃えた一人の発明家の志は自動織機の発明にとどまらず、自動車をはじめとするわが国の産業の発展へと大きく広がっていったのです。

「世のためになる事業を」

「世のためになる事業を」と、織機の発明を決意
明治維新が間近に迫った1867年(慶応3年)、敷知郡(ふちのごおり)山口村(現湖西市)に生まれた豊田佐吉は、若いころから「世のためになる事業がしたい」と考えていました。そして母が能率の悪い手織機で布を織る姿を見て、織機の発明を志すようになります。そんな佐吉を村の人々は「男のくせに機(はた)ばかりいじっておかしなやつだ」とあざけりましたが、佐吉の研究熱は燃え上がるばかりでした。それにはこんな思いがあったのです。「衣食住はどれも大切なものである。布を織る仕事も決してゆるがせにはできない。しかし、今のような仕事のやり方ではいつかきっと困るときが来る。だから織機をもっと進歩させなくてはならないのだ」

豊田佐吉生家(平成2年復元)

佐吉の父、伊吉が豊田家を継いで住んだ家。佐吉、平吉、佐助、はんが生まれ、後にトヨタ自動車を創設した佐吉の長男・喜一郎もここで誕生した。

写真:豊田佐吉生家(平成2年復元)

佐吉が目をつけたのは、布を織る際にたて糸の間を縫っていくよこ糸でした。よこ糸は杼(ひ=よこ糸を通す小さな舟形の道具)によって右から左、左から右へと往復しますが、これを人の手ではなく機構として動かせるようになれば、機織の能率は格段に向上するだろうと考えました。
そんな折り、1890年(明治23年)に東京で内国勧業博覧会が開催されます。目を輝かせて上京した佐吉は、毎日のように機械館に通い、銀色に輝く機械を見ては感嘆の声をあげました。と同時に、何とも肩身の狭い思いがわいてくるのを禁じ得ませんでした。出展されていた機械のなかに日本製のものは一台もなかったからです。「こんなことで日本の将来はどうなるんだ」。毎日通ってくる佐吉を見かねて「もう来ないように」といましめた守衛に、「機械が外国製ばかりで悔しくないのか」と答えたというエピソードからも、そのときの佐吉の悔しさ、やるせなさが伝わってきます。

試行錯誤の末に

それからの佐吉は寝食を忘れて研究に没頭します。しかし、思うように動くものはなかなかできません。納屋にこもって一心に考え抜き完成させた一台も、結局は失敗作に終わります。けれども佐吉は諦めませんでした。そして、これまでの失敗の原因をすべて取り除いた設計図を引いて組み立ててみたところ、やっと思い通りに動く織機ができたのです。
佐吉はさっそく、村人たちの前で完成した織機の実演を行ないました。結果は大成功。集まった村人たちは見事に布を織っていく不思議な機械に目を見張りました。この日、佐吉の発明した織機を操って布を織った人、それは彼の母でした。

豊田式木製人力織機

佐吉が発明した最初の織機。それまで両手で織っていたものを、片手で筬(おさ)を前後させるだけで、シャットルを左右に走るように改良し、4~5割も速く織れるようになった。

写真:豊田式木製人力織機

こうして1890年(明治23年)、当時広く使われていたバッタン織機と呼ばれる西欧製織機の生産性と製品の品質の大幅な向上を図った「豊田式木製人力織機」が誕生。翌年には最初の特許を取得しました。彼はこれに甘んじることなく動力織機の研究開発に乗り出しました。人の手から機械の力へ。佐吉の多年にわたる夢が、いよいよ実現への道を歩み始めたのです。
そして1896年(明治29年)、佐吉はついに日本初の動力織機「豊田式汽力織機」を完成させました。その後も改良に努め、さまざまな実験や試験的製作を行ない、織機に関する数多くの特許を取得。さらに1918年(大正7年)、中国で紡織事業を行なうことを決意した佐吉は、誰もが反対するなか、こう言って周囲を説得したのです。「障子を開けてみよ。外は広いぞ」

世界最高性能の自動織機を開発

1924年(大正13年)、佐吉の夢は大きな実りのときを迎えます。世界初の完全な「無停止杼換式豊田自動織機」(G型)の開発です。
この自動織機は、布を織るスピードを少しも落とすことなくよこ糸が自動的に補充できるなど、さまざまな工夫がなされた画期的な織機で、欧米の技術者から「Magic Loom」(魔法の織機)と賞賛され高い評価を受けました。そして1929年(昭和4年)、世界の紡織機業界のトップメーカーであった英国・プラット社に当時の金額で100万円という高額で技術供与(権利譲渡)されました。
この発明により、日本の紡織機工業および繊維産業は世界的レベルへと躍進を遂げていったのです。

「無停止杼換式豊田自動織機」(G型)

佐吉が世界で初めて完成させた無停止杼換式自動織機。機械の運転を止めずによこ糸を自動的に補給できるこの発明は世界的に認められ、高い評価を得た。

写真:A片側4梃杼織機

「外国に負けたくない」

「外国に負けたくない」。この一念で見事、完全な自動織機を完成させた豊田佐吉。彼はプラット社からの特許権代金を長男の喜一郎に托し、「自動車」の研究開発を命じます。こうして、わが国における自動車産業の発展のスタートが切られることとなったのです。1929年(昭和4年)のことでした。
そして翌1930年(昭和5年)、佐吉は病気のため逝去。技術立国をめざし自らの夢の実現に向かって走り続けた、63年の生涯でした。

佐吉の功績を物語る特許証、勲章の数々

【参考】
「浜松ものづくり人物伝」(浜松市教育委員会)