徳川家康公ゆかりの地 出世の街 浜松

ゆかりの地めぐり

館林市

2022.08.25

徳川四天王の一人榊原康政ゆかりの地『群馬県館林市』をご紹介します。
榊原康政は、天正18年(1590) 徳川家康の関東入国後、近世初代館林城主となりました。城主としては領内総検地や城郭・城下町の整備、堤防の構築などの功績があります。

【館林城】
館林城は城沼に西側から突き出した洪積台地上に築かれた平城で、文明3年(1471)にはじめてその名が史料に登場します。明治7年(1874)の大火で建物を焼失し、明治末期に主郭部は工場や公園などになりました。現在は、市役所や文化会館、市立資料館、市立図書館、田山花袋記念文学館、向井千秋記念子ども科学館などの公共施設・文化施設があり、一部は「館林城ゆめひろば」という広場になっています。城の鎮守であった尾曳稲荷神社は今も存在し、築城の際に狐が縄張りを示したという伝説を現代に伝えています。
令和元年(2019)に日本遺産に認定された「里沼(SATO-NUMA)~「祈り」「実り」「守り」の沼が磨き上げた館林の沼辺文化~」では、館林城に隣接する城沼を「守りの沼」としています。館林城・城下町は、沼を自然の要害とし、沼と繋がる大規模な総構えの堀を整備するなど、沼を活かした城づくり・まちづくりが行われてきました。
館林の里沼(SATO-NUMA)公式HP:https://sato-numa.jp/

【土橋門】
館林城跡には各所に土塁が残り、そのうち三の丸には、土橋門が復元されています。明治時代以降、館林城関連の建物や遺構が失われるなか、三の丸は旧藩主秋元家や旧藩士らが城跡として保存し、蔀土居(しとみどい)などの土塁が比較的よく残りました。土橋門は明治期に失われましたが、大正7年(1918)に秋元家が復元しており、三の丸は公園として開放されていたため門も人びとに親しまれました。その後、発掘調査の成果をもとに、昭和58年に現在の土橋門が復元され、館林城跡のシンボルとなっています。

【善導寺】
館林城下町南西部にかつて所在し、現在は館林市楠町の城沼沿いにある善導寺は、榊原氏にゆかりの深い浄土宗寺院です。
和銅元年(708)に行基が外加法師(館林市加法師町)付近に建てた一庵がはじまりで、建久4年(1193)に頓阿見性法師が草庵を修復、建治2年(1276)に良暁上人が再興して大伽藍を建立したといいます。
館林城主となった榊原康政は、当寺に来住していた高僧幡随意上人に帰依し、当寺を城下の谷越町(館林市本町二丁目)に移転して榊原家の菩提寺となりました。
現在、榊原康政と、その長子大須賀忠政、二代館林城主榊原康勝、康勝の生母花房氏、康政家臣の殉死者南直道の墓石が並び、群馬県指定史跡 榊原康政の墓 として整備されています。
館林駅東口駅前広場整備に伴って発掘調査が行われ、寺院は墓とともに平成2年(1990)に現在地に移転しました。