2023.03.08
静岡県御前崎市をご紹介します。
御前崎市は、徳川家康公ゆかりの地です。
【閑田院】
天正3年(1575)に織田・徳川連合軍と武田勝頼軍との間で雌雄を決する長篠の合戦を行った際、徳川方に命じられた閑田院が武田軍の調伏の大祈祷を行い、織田・徳川連合軍の大勝に終わったため、徳川家の武運長久の祈祷寺とされたと伝えられています。
【左馬武神社】
新野の左馬武神社には、戦国時代の武将新野左馬助親矩の墓と伝えられる石塔(五輪塔)があります。新野左馬助親矩は、後に「井伊の赤構え」部隊を編成し、徳川四天王のひとりに数えられる武将となった井伊直政が、2歳であった永禄5年(1562)に殺害されそうになったところを保護し、永禄7年(1564)に亡くなるまで養育した命の恩人と伝えられています。
【エイゴ坂】
天正6年、兵糧運搬のため高天神城へ入った武田勝頼軍を阻止するため、徳川家の旗本、榊原康政が地頭方、新谷台地で一戦を交えました。負傷した康政は家臣とともに、老婆ひとりが留守居をしている久々生の1軒の農家に逃げ込みました。老婆は手傷を負った武将たちを快く迎え、お茶を沸かしてもてなしました。康政は老婆の親切にたいそう喜び、帰り際に「ここより見える場所全てを、こののち、未来永劫に、そちの土地とするがよい」と言って海岸から山の中腹までの現在のエイゴ坂一帯の土地をくれました。老婆は、このことを未来永劫忘れまいと、裏山の坂道を「未来永劫坂」と呼び、いつしか、未来が消えて「エイゴウ坂」となり、その後「エイゴ坂」と言うようになったと伝えられています。
【白羽地区白羽柑子植物園】
今から450年前、武田軍に追い詰められた家康公は白羽の安西与左衛門宅の大きなミカンの木の中に隠れ難を逃れました。天下平定後、大御所となって駿府城に落ち着くようになってから白羽の郷で食べたミカンの味が忘れられず、白羽神社の神主に献上を命じたと伝えられています。それ以来、神主の年賀献上物として幕末まで続けられ、また将軍の命により継穂も献上されたという古文書の写しが白羽村史(大正年代編纂)等に記されています。