徳川家康公ゆかりの地 出世の街 浜松

ゆかりの地めぐり

袋井市

2023.03.14

静岡県袋井市をご紹介します。
袋井市は、徳川家康公ゆかりの地です。

【秋葉総本殿可睡齋】

家康公ゆかりのお寺で、曹洞宗屈指の名刹です。幼い家康公を戦乱から救った十一代和尚は、家康公が浜松城主になった折、城に招かれたその席上で居眠りを始めましたが、家康公は「和尚眠る可し」と言い、「可睡和尚」と愛称せられたことが可睡齋の名前の由来です。

【可睡齋の六の字穴】

家康公が武田信玄との戦いのなかで攻められ、可睡齋の裏山の洞穴に逃げ込んで難を逃れたという話です。この洞穴を家康公の功徳をたたえて、「権現洞」または「出世六の字穴」と呼び、現在でも信仰の対象となっています。六という数字は、仏教の教えにある地獄などの六道世界、六地蔵といった数字になぞらえているともいわれています。

【許禰神社】

この地は、木原畷と呼ばれる古戦場で、武田軍と徳川方の久野氏とが三方原の戦いの前哨戦となる一戦を交えました。境内には徳川家康公が腰掛けたとされる石があります。また許禰神社には、浜松城築城を命じられた惣奉行・普請奉行の一人、木原吉次の一族が住んだと云われ、吉次は440石に出世し、徳川家の大工頭となっています。

【長命寺】

高天神城を守備していた武田家臣の笹田源吾が、徳川領を偵察すべく木原を通りかかったところ、木原権現社の神主木原吉次に討ち取られました。家康公は大変喜び、吉次に感謝状を与えたといわれています。その後、木原が災害や疫病に見舞われたことを源吾のたたりと考え、長命寺に源吾の供養塔を建て、念仏供養(木原念仏 市指定)を始めたといわれています。現在長命寺に残る供養塔には、戦国時代の宝篋印塔の部材が残されています。

【本庄山砦】

久野氏らと共に家康公家臣となっていたと思われる、宇刈7騎の一人、村松氏の居城です。発掘調査で本曲輪周辺に長大な横堀や、大規模な堀切が配されていることが判明し、戦国時代末期に徳川氏によると思われる大規模な改修が確認されました。太田川沿いに南下してきた武田の軍勢を向かい討つと共に、久能城の北方を固めていた重要な城であったと思われます。なお、戦国時代の遺物が城の南麓、現在の極楽寺周辺から出土しているので、ここに山麓館があった可能性が指摘されます。

【西楽寺】

家康公駒つなぎの桜(現在御衣黄)が方丈の庭に植えられています。西楽寺の北には本庄山砦があり、西楽寺には村松勝孝の文書も所蔵され、かつては付近に近世村松家墓所も所在したことから、西楽寺は村松氏との関係が深かったと思われます。家康公と信玄の戦いの最中、久野氏や村松氏が奮戦していたこの地域を守るために出陣した際に、家康公が西楽寺に立ち寄った由来を示す伝説かもしれません。

【医王山油山寺】

油山寺にたてこもっていた家康公が軍善坊大権利現に祈願すると神の姿が現れ、渡されたつり鐘を鉄砲にし、その鉄砲で家康公は戦に勝ったという言い伝えがあります。

【法多山尊永寺】

由緒ある厄除け観音として知られている法多山は、今川、豊臣、徳川などの武将の信仰を得たことでも有名であり、本坊前には家康公お手植えの松があります。

 

【久野城址】

明応年間(1492~1501)に、久野宗隆によって築城された平山城です。その後、城主となった久野宗経は、今川義元の西進作戦に家康公とともに参戦しました家康公が、今川氏真の立てこもる掛川城を攻めた際には、当時の久野城主久野宗能は家康公に味方しました元亀3年(1572)、久野城は三方ヶ原の戦いの前哨戦として武田信玄に攻められるが、久野宗能は落成させず守り切りました本能寺の変の後に、家康公が堺から岡崎に逃げ延びた伊賀越えの時には、久野宗能の長男、宗朝が同行して逃げ切りましたその後、宗能は武田勝頼の高天神城攻めにも徳川方として参戦しますが、転封先での不手際で改易されます。ただ、その後、家康公の一言で、隠居料として再び久野城主となりました久野城は、その後、家康公の甥、北条氏重が城主に任命されました

【馬伏塚城】



馬伏塚城(まむしづかじょう)は、遠江小笠原氏ゆかりの平山城です。正確な築城年代は不明ですが、応仁の乱後の地域の混乱の中で築かれました。戦国時代には、沼地が広がる中に築かれた天然の要害だったようです。馬伏塚城が歴史の表舞台に登場するのは、永禄の頃、家康公・武田信玄が今川氏真の領地を攻めた頃から、武田家滅亡のきっかけとなった高天神城落城までの期間です。特に、高天神城をめぐる戦いの時には、武田勝頼が掌握する高天神城を攻めるために、家康公は馬伏塚城を整備し、一時期、ここに陣を置いていました。