2023.03.14
静岡県掛川市をご紹介します。
掛川市は、徳川家康公ゆかりの地です。
【掛川城】
15世紀末、駿河守護今川氏の遠江進出の足掛けとして築かれたことにはじまります。戦国期末、家康公による遠江制圧にあっても欠くことのできない城郭でした。永禄11年(1568)、徳川軍は、今川氏真と重臣朝比奈氏のこもる掛川城を攻撃しました。掛川城を取り囲むように15にも及ぶ城砦を築き、半年間におよぶ攻防を経て翌12年、掛川城を奪取しました。
その後、家康公は城代として重臣石川家成を置き、対武田氏との橋頭堡に位置づけ、本丸虎口周辺をはじめとする大改修を行いました。
天正19年(1590)、豊臣秀吉による天下統一後、掛川城には豊臣配下の山内一豊が入城し、天守・石垣普請、城域の拡張、城下町の整備等により近世城郭としての体裁を整えました。
天守は、平成6年(1994)日本初の本格的木造として復元されたものです。
【高天神城跡】
東海道と遠州灘に面した湊を結ぶ要衝に位置し、戦国期には「高天神城を制す者は遠江を制す」と云われた難攻不落の城です。
今川氏の領有を経て、戦国末期には武田氏と徳川氏との間で激しい争奪戦が繰り返されました。
鬱蒼とした山中には今も激戦を物語る曲輪・土塁・竪堀・横堀等の城郭遺構が良好に遺されています。
【横須賀城跡】
16世紀後半、家康公が高天神城奪還のために築いたことに始まります。内海に面していたことから、高天神城の攻囲のために築かれた六砦をはじめとする20にも及ぶ城砦(陣城)への兵士・物資供給のための兵站基地として機能しました。
豊臣秀吉による天下統一後、豊臣配下の渡瀬繁詮が入城し、天守・石垣普請、城域の拡張、城下町の整備等により近世城郭としての体裁を整えました。
昭和56年(1981)には国史跡に指定され、本丸・西の丸を中心に整備され、河原石による石垣が復元されています。
【高天神城攻めの六砦】
家康公が高天神城奪還のため、天正7年(1578)から翌8年にかけ、高天神城を包囲するように築かれた城砦群(陣城)です。実際には20にも及ぶ城砦が築かれ、その内の主な小笠山砦・能ケ坂砦・火ケ峰砦・獅子ヶ鼻砦・中村砦・三井山砦が六砦と呼ばれています。この攻囲が功を奏し、天正9年(1580)難攻不落と呼ばれた武田方の高天神城は落城、徳川方が奪還しました。
【家康公による掛川城攻めの城砦群】
永禄11年(1568)、家康公は今川氏真と重臣朝比奈氏がこもる掛川城を攻撃するために、掛川城の周囲ならびに掛川城の通じる街道を押さえるによう15にも及ぶ城砦(陣城)を築きました。その多くは消滅、改変されていますが、青田山砦(陣馬峠)・天王山砦(龍尾神社)・笠町砦(神明神社)・小笠山砦などの城砦には明瞭な遺構が遺されています。
【掛川古城と龍華院大猷院霊屋】
掛川古城の創築は15世紀末、今川氏の重臣朝比奈氏の築城にさかのぼります。永禄11年(1568)の家康公による掛川城攻めに際しては、今川方の出城に位置付けられました。土塁や大堀切は、往時の城郭としての勇姿を今も雄弁に物語ります。
明暦2年(1656)、掛川城主である北条氏重が、三代将軍家光の霊を祀った霊廟(龍華院大猷院霊屋)を建立しました(文政5年(1822)再建)。