徳川家康公ゆかりの地 出世の街 浜松

ゆかりの地めぐり

磐田市

2023.02.20

静岡県磐田市をご紹介します。
磐田市は、徳川家康公ゆかりの地です。

【伝酒井の太鼓】

元亀3年(1572)武田信玄は遠江へ侵攻し、家康公と三方ヶ原で戦を交えました。この戦いで徳川軍は敗北し、浜松城まで逃げ帰りました。武田方は徳川方を追走し、城門まで迫ってきました。浜松城は城門を開き、酒井忠次によって櫓門の太鼓が高々と打ち鳴らされ、徳川方の策略があると案じた武田方は退却したとされています。この時に打ち鳴らされた太鼓が「酒井の太鼓」と伝えられています。太鼓は明治初年に浜松藩国替の際に民間に払い下げられ、明治8年の見付学校の開校を機に学校に寄贈されました。

【中泉御殿表門(西光寺表門)】

家康公は、天正6年(1578)に府八幡宮の神主、秋鹿(あいか)氏の屋敷跡に小堡(小さな砦)を設けました。その後、家康公の命を受けた伊奈忠次により天正12~15年ごろ御殿が築かれました。御殿は寛文10年(1670)に廃止され、表門は西光寺へ、裏門は西願寺に移築されたと伝えられます。この門は3間1戸の薬医門で、主要な柱間の距離は約11尺4寸(3.45メートル)で木鼻や笈型などに工夫を凝らしており、御殿の表門にふさわしい門といえます。

【旧中泉御殿裏門(西願寺)】

寛文10年(1670)に廃止された旧中泉御殿の裏門は西願寺に移築されたと伝えられます。この裏門は、主要な柱間の距離約9尺6寸(約2.9メートル)を測る1間1戸の薬医門です。表門と比べると小さく作られています。

【家康奉納の鐘(梵鐘)】

梵鐘は、池ノ間(鐘の胴部)に陰刻された銘文から、家康公が施主となり、天正15年(1587)に宣光寺地蔵菩薩のために寄進されたものであることがわかります。当時は家康公によって中泉御殿が造営され、遠江支配の関係から宣光寺へこの梵鐘を寄進したものと考えられます。見付宿は、近世以降、磐田郡に属しますが、梵鐘の銘文には、見付周辺の郡名である「豊田郡」と記されています。また鋳鐘に関わった大工は、見付在住の職人であったこともわかります。

 

【大日堂(物見の松)】

元亀3年(1572)、武田軍は木原(袋井市)、西島(磐田市)に数万の軍を敷き、三ケ野まで偵察に来た3千の徳川軍を攻撃しました。大日堂には偵察に来た本多平八郎が木原に陣を置いた武田軍を偵察したといわれる物見の松がありました。

【一言坂の戦跡】

元亀3年(1572)三ケ野で武田軍との戦いに敗れた徳川軍は浜松城へ退却する途中、一言坂で追いつかれ激しい戦いが行われました。殿を務めた本多平八郎が獅子奮迅の活躍をし、家康公を無事浜松城まで逃がしたことで知られています。

【社山城跡】

社山の標高130メートルあたりに築かれた平山城です。築城年代は不明ですが、15世紀末には存在していたようです。16世紀初頭には斯波氏と今川氏の抗争の場となり、のちに今川氏の支配下に置かれました。桶狭間の戦いで今川氏が敗れ、勢力が弱まった後には徳川氏の支配下に移りましたが、元亀3年(1572)、武田氏の遠江侵入により、徳川氏と武田氏による抗争の場となりました。城跡には曲輪、堀切、土塁などの遺構が残されています。

【天竜川渡船場跡】

池田の渡船は中世から行われていたようです。武田軍に追われていた家康公が、危急を救ってくれた恩賞として、天正元年(1573)には池田船方衆に朱印状を下し天竜川における渡船権を与えました。

【城之崎城】

家康公は、永禄12年(1569)から見付の城之崎(現城山球場)に城を築き始めましたが、東から攻めてくる武田軍に対し、天竜川を背にするということで戦略上不利と考え、翌年には築城途中で造営を中止し、浜松城に本拠を移したといわれています。現在城之崎城跡には土塁や空堀が一部残っています。

【旧蹟挑燈野(碑)】

元亀3年(1572)家康公は、一言坂で武田軍との戦いに敗れ、退却する時に、上万能の沼地にたくさんの提灯を掲げたり、腰まで潜る深田に橋をかけたりして、武田軍を迎え撃ち敗退させたと伝えられています。村人たちはその時の多くの戦死者を弔いそこを挑燈野と名付けたとされます。

【家康お手植えのソテツ】

市内の中泉(御殿)地内に小笠寺三仭坊という寺院があり、天正年間の御殿造営による移転の際、家康公の信仰が厚かったため、ソテツを寄進されたと伝えられます。その後、昭和17年に三仭坊が七軒町の大乗院と合併することとなった時、磐田町役場(現磐田市役所)の敷地内にソテツが寄贈されました。