家康の散歩道とは、「浜松」に今も残る徳川家康公ゆかりの地を歩いて巡るコースです。家康公の軌跡と戦国の歴史を感じながら、ゆっくりと歩いてみませんか。
城内・城下ルート
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徳川15代の礎を築いた出世城、
野面積みの石垣が往時を物語る
遠江の経路拠点としては引間城が手狭であったことから、家康公は西南の丘陵地に大規模な築城を行いました。1570(元亀元)年に家康公が浜松城に入城した際に、引間を浜松と改めたといわれています。現在残っている遺構は天守曲輪を中心とする一帯で、荒く組まれた「野面積み(のづらづみ)」の石垣は、ほぼ戦国時代そのままの姿で残っています。現在の天守閣は昭和33年に、天守門は平成26年に建てられました。
今川家武将の居城であった引間城
現在では家康公を祀る東照宮に
元城町東照宮は1886(明治19)年に創建されました。石の鳥居の横に「曳馬城跡」と刻まれた史跡碑があります。社殿の扉や屋根には三つ葉葵の紋所が見られ、家康公を祭神としているお社であることを示しています。1568(永禄11)年に三河から遠江に入った家康公は今川方の拠点であった引間城を攻め入城し、城地を拡大し浜松城を築城しました。その後、引間城の跡地には米蔵十数棟が建てられました。
住所:静岡県浜松市中央区元城町111-2
悲運の城主、椿姫の伝説の地
亡き夫・飯尾豊前守に代わり、引間城主となったお田鶴の方。しかし徳川勢との戦いの末、命を落とします。母同士が義理の姉妹にあたる築山御前(家康公の正室)は彼女の死を哀れみ、塚の周りに100株余りの椿の花を植えたといわれています。椿は毎年美しく咲き誇り、いつしか椿塚と呼ばれ、それが椿姫の名の由来になったと言い伝えられています。
住所:静岡県浜松市中央区元浜町133
家康公が逃げ込んだ大楠の洞
凛とした空気が漂う浜松八幡宮境内に茂る「雲立のクス」。三方ヶ原の戦いで敗走してきた家康公がこの楠の洞に逃げ込み追手から身を隠していたところ、突然雲が立ち上がり、神霊が白馬に跨って浜松城へ飛び立ったのを見て勇躍した、という伝説からこの名がついたといわれています。樹齢1000年を超える御神木で、かつて家康公もこの木に武運を祈願したといわれています。
江戸幕府2代将軍、徳川秀忠公出生の地
家康公の側室である西郷局が2代将軍秀忠公を生んだとき、産湯としてこの辺りにあった井戸水が使われたという伝承をもとに作られた井戸です。出生地とされる場所は2説あり、1説は浜松城二の丸の北。もう1説は現在のクリエート浜松西側付近であり、新川交番北側に石碑と石畳の小道が設置されています。秀忠公は、天下人の中で唯一の浜松生まれです。
住所:静岡県浜松市中央区常盤町141-25
家康公の命により本殿を修造、穀物の神である倉稲魂命を祀る
遠江分器稲荷神社は、徳川家康が三河から浜松に入った1568(永禄11)年に創建されたと伝えられています。 稲荷神社の場所は中世引間宿の南限にあたり、家康が浜松に来た頃には、経済の中心としてたいへん賑わっていました。家康在城17年のうちに引間城(浜松城)を拡大し、堀尾吉晴や江戸初期の譜代大名が城下を大改造すると、引間宿は解体されて跡地は武家屋敷になりました。神社の西側には家康の重臣・徳川四天王の一人として大活躍した本多忠勝の屋敷があったと伝わります。
住所:静岡県浜松市中央区田町232-5
浜松神社と松尾社を合祀、浜松城の祈願所に
社伝では、和銅年間(708~715)創建と伝わります。もとは引間城下の塩市口(市役所東側)にあった浜松神社を、1577(天正5)年、徳川家康の浜松城構築に合わせ松尾社と合祀し、現在地に移ったといわれています。浜松城の祈願所であり、歴代城主からは飾松の寄進を受けるとともに、目付役以下の役人が神輿の警護にあたるなど、浜松藩と深い関係がありました。
住所:静岡県浜松市中央区元魚町29
金山彦命・金山姫命を祀り、鍛冶職や金工職人、鋳物屋の篤信を集める
浜松の鍛冶集団は、1582(天正10)年、織田信長と徳川家康が武田氏を滅亡させたことを契機に甲斐の国から技術者を移住させたのが起源とされます。この鍛冶集団が当地に勧請したのが金山神社で、もとは浜松城内にあったものが、寛永年間(1624~1644)、浜松城下の鍛冶町の形成と同時に現在地に移ったといわれています。神社は栄町にありますが、現在も鍛冶町の氏神として信仰を集めています。
住所:静岡県浜松市中央区栄町9
徳川家の歴史と深く関わる子育て神社
五社神社は、もともと浜松城内に祀られていましたが、2代将軍秀忠公の産土神(うぶすながみ:生まれた土地を守護する神)として家康公の命で現在の地に遷座しました。また、諏訪神社は3代将軍家光公の命により現在の場所に遷座。徳川家から崇敬されてきた両神社は、1960(昭和35)年に1つの神社として合祀されました。子守り・子育ての神様としての信仰も厚く、現在では七五三の時期になると綺麗に着飾った子どもたちや家族で賑わいます。
家康公が浜松の裏鬼門に勧請、永き泰平の世を築く礎となった旧武田家臣団の起請文を奉納させた祈りと結びの神社
浜松秋葉神社は、浜松城が築かれた1570(永禄13)年に徳川家康の命によって、秋葉山から勧請したと伝わります。武運長久と城下の安全を願い、浜松城の裏鬼門(西南)にあたるこの高台の地が選ばれたとみられます。境内には、家康の家臣、奥平信昌の屋敷がありました。奥平信昌は、三河出身の武将で家康の信任が厚く、長女亀姫を正室としました。
浜松城の防御の要衝、鳥居元忠が守備した
現在の中央図書館があった辺りは浜松城内で「出丸」と呼ばれていました。徳川家康が浜松城にいた頃は、本丸や二の丸からは独立した施設であったとみられ、南の防御を固める役目を果たしていたと考えられます。出丸を「鳥居曲輪」と記した絵図が知られています。鳥居とは、徳川家康の重臣、鳥居元忠のことで、家康の在城期には出丸を守備していたと考えられます。
住所:静岡県浜松市中央区松城町214-20
負け戦から逃げ帰り、安心して鎧を掛けた伝説の松
市役所の西側にある「鎧掛松」。この松は三方ヶ原の戦いに負け、浜松城に逃げ帰った家康公が、鎧を脱いでその松に掛けたといわれていることからその名がつけられました。現在の松は3代目にあたり、初代の松は浜松城内の堀の近くにあったといわれています。また、当時鎧掛松近くの清水で、合戦で疲れた馬のからだを冷やしたことから、松城町に馬冷(うまびやし)という地名が今も残っています。
住所:静岡県浜松市中央区元城町103-2