浜松は、家康公が青壮年期の17年間を過ごした場所。
そのため、家康公のエピソードや伝説にまつわる地が数多く存在します。各所を巡って、若き日の家康公と出会う旅をお楽しみください。
1570年に徳川家康が引間城を改修し、名称を「浜松城」と改めた城。1959年に天守閣が再建、2014年に天守門が復元され、現在に至ります。自然石を上下に組み合せて積み上げる「野面積み」の石垣が有名で、展望台からは浜松市街を一望できます。城内には家康にまつわる歴史的資料や武具などを展示しています。
犀ヶ崖は浜松城から約1km北にある断崖。三方ヶ原の戦いで大敗した家康公は、その夜に一矢を報いようと、犀ヶ崖近くで野営する武田軍を急襲。武田軍は崖に転落して多くの死者を出したという言い伝えがあります。資料館には、家康公が武田軍の霊を弔うために行った「遠州大念仏」の資料のほか、三方原合戦の大ジオラマなども展示されています。
住所:静岡県浜松市中央区鹿谷町25-10
犀ヶ崖資料館の敷地内に立つ石碑。本多忠真は、三河の松平氏時代からの家康の家臣。三方ヶ原の戦いで徳川軍が退却する際に自らしんがりを買って出て、道の両側に旗指物を突き刺し、「ここから後へは一歩も退かぬ」と、追走する武田軍に斬り込んで討死しました。
住所:静岡県浜松市中央区鹿谷町25-10
犀ヶ崖古戦場の向かいに建てられた石碑。夏目吉信は家康公の家臣でしたが、三河一向一揆の際には他の家臣らとともに家康公に反旗を翻しました。その後捕縛され処刑されるところを、家康公の寛大な処置により許されます。家康公に命を救われた夏目吉信は、その恩義を生涯忘れず、三方ヶ原の戦いでは家康公の身代わりとなって武田勢と戦い、犀ヶ崖の近くで討死しました。
住所:静岡県浜松市中央区布橋2丁目
927年に創建された神社で、勝運や立身出世などの神様として親しまれています。境内のクスノキは「雲立の楠」と呼ばれ、三方ヶ原の戦いに敗れた家康公が、クスノキの洞に逃げ込んで身を隠していたところ、木から雲が立ち上がり、白馬に乗った神霊が浜松城へと飛び立つのを見たという伝説があります。その後、家康公は八幡宮を徳川家代々の祈願所と定め、武運を祈願するようになりました。
1568年、三河から遠江に入った家康公は今川方の拠点だった引間城を攻め落として入城し、城地を拡大。浜松城と名を改めました。明治維新後の1886年には引間城跡に元城町東照宮が創建。引間城にはかつて豊臣秀吉が訪れたこともあるため、二人の武将を天下人へと導いた「出世神社」として注目され、多くの参拝者が訪れます。
住所:静岡県浜松市中央区元城町111-2
1568年に家康公が引間城に攻め入った際、当時の女城主・お田鶴の方は侍女たちとともに懸命に闘い、討死したといわれています。家康公の正室・築山殿は、お田鶴の方と母同士が義理の姉妹にあたるため、その死を哀れんで100株余りの椿を植え、お田鶴の方を祀りました。その場所はいつしか「椿塚」と呼ばれるようになり、それが「椿姫」の名の由来になったという言い伝えがあります。
住所:静岡県浜松市中央区元浜町133
1572年、武田信玄と徳川家康が戦った「三方原の戦い」。三方原台地の一角には、この周辺が戦いの舞台となったことを示す碑が建てられています。
住所:静岡県浜松市中央区根洗町1109
江戸幕府2代将軍、徳川秀忠公出生の地。家康公の側室・西郷局が秀忠公を産んだとき、産湯としてこの周辺の井戸水が使われたという伝説をもとに復元されました。ただし、秀忠は家康の下屋敷ではなく浜松城内の二の丸の北で生まれたという説もあるなど諸説あります。
住所:静岡県浜松市中央区常盤町141-25
五社神社は、家康公によって、2代将軍秀忠の誕生の折に産土神(秀忠が生まれた土地の守護神)として浜松城内から現在の地に移されました。家康公は、その後も子どもたちのお宮参りや自身の厄除けの祈祷を五社神社で行ったといわれています。一方、諏訪神社は、3代将軍家光公によって現在の位置に移されました。両神社は1960年に合祀されて1つの神社となり、現在も子守り・子育ての神様として信仰を集めています。
市役所の西側にある「鎧掛松(よろいがけのまつ)」は、三方ヶ原の戦いで敗れて浜松城に逃げ帰った家康公が、鎧を脱いでこの松に掛けたという伝説から、その名が付けられました。現在の松は3代目で、初代の松は浜松城内の堀の近くにあったといわれています。
住所:静岡県浜松市中央区元城町103-2
703年建立の真言宗の古刹。戦国時代には、境内に今川家の武将・松下家の屋敷があり、「頭陀寺城」とも呼ばれました。松下家には豊臣秀吉公が3年間奉公していたという記録があり、頭陀寺は徳川四天王の1人・井伊直政公が幼少期を過ごした場所でもあります。その後、1564年に焼失しましたが、後年、豊臣秀吉や徳川家康の寄進により復興を遂げました。
中村家住宅は1688年頃に建てられた建物で、国の重要文化財。中村家の初代は源氏の末裔の武士で、浜松城主と単独で拝謁できる程の家柄でした。家康公からの信頼も厚く、今切軍船の兵糧奉行や代官を務めました。1574年には、家康公の側室・於万の方がこの屋敷で家康の第2子(後の結城康秀)を出産。屋敷内には、その時の胞衣(胎児を包んでいた膜や胎盤など)を埋めた胞衣塚が現存します。
家康公の正室・築山殿は、謀反の疑いをかけられ、家康の家臣によって佐鳴湖畔で命を断たれました。その際、家臣が築山殿の血がついた太刀を近くの池で洗ったと伝えられ、池の跡地には史跡碑と説明板が立っています。
住所:静岡県浜松市中央区佐鳴台5-6-1
1428年開創の曹洞宗の寺院。悲劇的な死を遂げた家康公の正室・築山殿の廟所がある寺として有名です。築山殿の廟堂・月窟廟は一時戦災のため焼失しましたが、1978年の400年忌に復元されました。
住所:静岡県浜松市中央区広沢2-10-1
曹洞宗の古刹で、由緒ある寺として徳川氏の保護を受け、家康公も客殿を寄進しました。三方ヶ原の戦いの際には、浜松城が炎上したかのように見せかけるため、家康の命で普済寺に火が放たれたとの逸話があります。その後、家康公は七堂伽藍を再建しましたが、戦災で焼失。1964年に再び再建されました。
住所:静岡県浜松市中央区広沢1-2-1
二俣城跡及び鳥羽山城跡は、戦国時代の山城。1572年~1575年には、二俣城で徳川氏と武田氏の攻防戦が繰り広げられ、鳥羽山城には徳川方の本陣が置かれました。二俣城は、1579年に家康公の嫡子・松平信康が自刃した場所としても知られています。
家康公の嫡男・岡崎三郎信康は、織田信長に謀反の疑いをかけられ、二俣城で切腹。その後、家康公は信康を供養するために清瀧寺を建立しました。清瀧寺という名を与えたのも家康公自身です。
気賀関所は、1601年に家康公が設けたとされています。江戸時代に全国に53カ所あった関所の1つで、東海道では箱根や新居と共に3大関所として重視され、江戸への武器の持ち込みなどを防ぐ役割を担いました。現在の建物は、江戸時代の史料を基に1990年に復元されたものです。
15世紀に開創された曹洞宗の寺。境内には三方ヶ原の戦いの際に家康公の身代わりとなって戦死した成瀬正義や、旗手として討死した外山正重のお墓があります。寺の東南一帯には的場があり、家康公が弓の稽古に励んだといわれます。また、今川義元・氏真父子の直筆の古文書も現存し、浜松市の文化財に指定されています。
住所:静岡県浜松市中央区蜆塚1-20-1
護法山 地蔵院は1390年に創建された臨済宗方広寺派の寺院。位牌堂には、家康公の正室・築山殿が守り本尊として肌身離さず持っていた秘仏「腹篭地蔵尊」が祀られています。この地蔵尊は、江戸時代に「麦飯長者」として知られた徳の高い代官・小野田五郎兵衛久繁が1758年に堀江城主・大沢右京大夫から譲り受け、お堂を建てて安置したといわれています。寺院では「安産」のお守りとして、地蔵尊のお札を大正時代まで配っていたそうです。