徳川家康公ゆかりの地 出世の街 浜松

家康公「伝」

浜松と家康公・ココに注目!

家康公は「浜松」の
名付け親!?
家康公は「浜松」の名付け親!?

家康公は、1568年に三河国から遠江国へ侵攻を開始。同時期に駿河まで勢力を伸ばしていた武田信玄の侵攻に備えるため、1570年に岡崎城を長男の信康に譲り、本拠地を遠江国に移しました。そして、遠江国の引間城に入城して城域の拡張や改修を行い、城の名称を「浜松城」と改めました。その結果、この地域一帯が「浜松」と呼ばれるようになったのです。つまり、浜松の名付け親は家康公ということになります。

家康公が築城した浜松城はどんな城?
家康公が築城した浜松城はどんな城?

安土桃山時代以降、城は戦いの防衛拠点としてだけでなく、政治経済の拠点としての役割も担うようになり、利便性の高い平地に御殿や屋敷が建てられるようになりました。家康が築いた浜松城の城郭は南北に約500m、東西に約450m。三方ヶ原台地の斜面に沿って、西北の最も高い場所に天守、その東に本丸、二の丸、三の丸と、ほぼ一直線に並ぶ「梯郭式(各曲輪が隣接しながら階段状になっている様式)」の築城法で建てられました。

家康が最も戦い、
最も苦悩した浜松時代
家康が最も戦い、最も苦悩した浜松時代

浜松城での17年間は、家康公が最も戦い、最も苦悩した時代でした。
1570年には「姉川の戦い」で織田・徳川連合が浅井・浅倉連合に勝利。1572年の「三方ヶ原の戦い」では武田信玄に敗北し、生涯最大の負け戦を体験。1575年の「長篠・設楽原の戦い」では、信長とともに武田軍を討伐。1582年には「本能寺の変」で信長が自死。1584年に「尾張・長久手の戦い」で豊臣秀吉と戦い和睦するなど、日本の歴史を揺るがす戦いが立て続けに起こりました。

浜松は、家康公が天下統一の基礎を築いた場所!
浜松は、家康公が天下統一の基礎を築いた場所!

遠江国は、父祖伝来の三河支配を確立後に初めて自力で獲得した領地。そして、浜松城は家康公が天下取りの勝負に挑む拠点として築いた城です。29歳から45歳にわたる青壮年期を浜松城で過ごした家康は、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなど、次々と戦いに臨み、名武将たちとしのぎを削った時期でもあります。家康公はこうした数々の経験を通して家臣たちとの絆を深めながら、天下統一に必要な力を蓄えていきました。

浜松を舞台に起きた
築山殿と信康の悲劇
浜松を舞台に起きた築山殿と信康の悲劇

築山殿は家康公と結婚後、長男・信康を出産。信康は後に織田信長の娘・徳姫と結婚しました。しかし、築山殿や信康と徳姫との関係が悪化。徳姫は父親の信長に、二人が武田家と内通していることなどを訴える訴状を送りつけます。それを読んだ信長は、家康公に信康の切腹と築山殿の殺害を指示。築山殿は岡崎城から浜松城へ向かう途中の佐鳴湖畔(浜松市中区)で徳川家臣に殺害され、信康は二俣城(浜松市天竜区)で自害しました。

人生最大の敗け戦・
三方ヶ原の戦いとは
人生最大の敗け戦・三方ヶ原の戦いとは

武田信玄は信長討伐のため京都へ向かう途上で徳川領へ侵攻。三方ヶ原の戦いが起こりました。しかし武田軍の圧倒的な戦力の前に徳川軍は総崩れとなり、家康公は多くの家臣を失って、命からがら浜松城へ戻りました。勝利した武田軍は浜松城に程近い犀ヶ崖まで進軍しましたが、徳川軍は夜襲を仕掛け、大勢の武田軍が崖から落ちて死傷しました。信玄は戦いの後に、「勝っても恐るべき敵である」と家康公を讃えたといわれています。

敵でありながら師・武田信玄の存在
敵でありながら師・武田信玄の存在

甲斐の虎と畏れられた武田信玄は、三方ヶ原の戦いで家康公に勝利した4カ月後に急死。家康公は信玄の死を惜しみ、「信玄ほど戦いの道に熟達した者を見たことがない」と家臣たちに伝えたといいます。1582年に武田家が滅亡後、家康公は武田家の遺臣たちを召し抱えて軍事力を取り込み、武田軍の象徴である「赤備え」は四天王・井伊直政に受け継がせました。信玄から受け継いだ戦国魂は、後に家康公を天下統一へと導いたのです。

家康公を支えた
忠臣「四天王」とは?
家康公を支えた忠臣「四天王」とは?

家康公は三河時代から家臣に恵まれ、四天王や十六神将と呼ばれる家臣団が天下取りを支えました。井伊直政は四天王の最年少で、敵から「井伊の赤鬼」と恐れられ、関ヶ原の戦いでは戦の火蓋を切りました。酒井忠次は家康公の父・広忠の時代から松平家に仕えた忠臣です。本多忠勝は生涯に渡る57回の戦いでかすり傷一つ負わなかったという言い伝えがあり、榊原康政は豊臣秀吉に懸賞金をかけられるほど強い武将だったといわれています。

秀吉の陰謀?関東移封とは
秀吉の陰謀?関東移封とは

1590年、家康公は豊臣秀吉の命で小田原征伐の先鋒を務めた後、征伐で得た関東の領地とそれまでの領地との国替え(関東移封)を命じられました。石高は大幅に増えましたが、中央から遠ざかる上に後北条家の遺臣たちの抵抗も予想されたため、関東移封は家康を警戒した秀吉の策略との見方もあります。しかし家康公は国替えを受け入れ、しかも本拠地を小田原とせず、海や川に面していて物資の運搬に便利な江戸に定めました。

出世城・浜松から天下統一へ
出世城・浜松から天下統一へ

本能寺の変以降、水面下で天下取りを図っていた家康公は、秀吉と距離を置くため1586年に浜松城から駿府城へ移りました。1590年には秀吉に関東移封を命じられ、江戸城に入城。秀吉の没後、1600年に関ヶ原の戦いに勝利して天下統一を成し遂げ、1603年に江戸幕府を開いたのです。家康公はその2年後に将軍職を秀忠に譲り、自らは大御所として駿府に移住。その後も実権を握りながら幕府を支配しましたが、1616年に病で75歳の生涯を閉じました。