徳川家康公は、29歳から45歳までを浜松城で過ごしました。
家康公の生涯において、浜松時代はどのような時代だったのでしょうか。
1542年に岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれた徳川家康公は、幼少時から尾張の織田家と駿府の今川家で人質生活を送り、1557年に15歳で元服。今川義元の命で築山殿と結婚しました。1560年の桶狭間の戦いでは、今川方の武将として活躍し、西三河を平定したものの、今川義元の死によって岡崎へ帰城。今川氏を見限り、織田信長と清洲同盟を結びました。
その後、家康は三河の一向一揆を平定し、三河全域を支配。1568年には引間城を攻め落とし、勢力を遠江まで拡大しました。1570年には、信長と共に浅井長政と朝倉義景の連合軍を破り、「姉川の戦い」に勝利。それを機に、岡崎城を嫡男の信康に任せて自らは遠江の引間城に移り、城を拡大して浜松城と改めました。この時、家康は29歳でした。
(図)遠州浜松城絵図 17世紀。天地(南北)を逆に掲載。
浜松城の東北(図右上四角囲み内)が中世の引間城である。
浜松城に移ってからの当面の大敵は、甲斐の武田信玄。大井川を渡って堂々と遠江に侵入してくる武田軍に対し、織田信長は家康に岡崎へ退くよう勧めましたが、家康は浜松城に踏みとどまり、1572年に三方原の戦いが起こりました。徳川軍は戦国最強と謳われた武田軍の圧倒的な戦力の前に総崩れとなり、わずかな護衛と共に命からがら浜松城へ逃げ帰りました。
その後も武田軍の攻勢は続きましたが、1573年に武田信玄が病に倒れ急死。織田信長との強力な軍事同盟のもと、1575年には徳川・織田の連合軍が三千挺の鉄砲を用意して武田軍を打ち破り、長篠の戦いに勝利。武田軍は1582年に滅亡しました。信玄に畏敬の念を抱いていた家康は、武田家の家臣たちを召し抱え、武田軍の「赤備え」は家康の四天王・井伊直政に受け継がれました。信玄から承継した戦国魂は、後に家康を天下人へと導くこととなります。
家康は、武田勝頼を滅ぼした功績により、信長から駿河を与えられました。しかし、同年に明智光秀の謀反により信長が京都本能寺で自刃。泉州の堺でこのことを聞いた家康は、いったん本国の三河へ帰ろうと、伊賀越えをして伊勢湾から船で三河に渡る最短の経路を選びました。しかし、少人数での伊賀超えは危険極まりなく、伊賀出身の服部半蔵の案内で命からがら三河に辿り着くことができました。伊賀越えは三河一向一揆や三方ヶ原の戦いと並び、家康公の三大危機と呼ばれています。
本能寺の変の後、家康は甲斐で北条氏と対峙しましたが、結果的には和議が成立。三河・遠江・駿河に甲斐と信濃が加わり、5カ国を統治する大大名へと成長しました。しかし、信長の後継者である羽柴秀吉との関係が悪化し、1584年に小牧・長久手の戦いが起こりました。家康は秀吉との戦いに勝利したものの和睦に至り、家康の二男・於義丸(後の結城秀康)を養子(人質)として秀吉のもとに送りました。
その後、1586年に秀吉の母・大政所を人質として岡崎に迎えた後に上洛。大坂城で秀吉に臣下の礼をとり、秀吉の家来となりました。そして同年、駿府城に移ることとなったのです。家康公が浜松城に居城して17年目のことでした。
その後も家康公は豊臣政権の重鎮として力を蓄え、関ヶ原の戦いに勝利して、還暦を過ぎてからようやく江戸幕府を樹立。その後、わずか10年で盤石な政治体制を構築し、二六〇年にわたる太平の世の礎を築きました。
こうして家康公の生涯を振り返ると、幾多の苦難を乗り越えて青壮年期を過ごした浜松は、天下統一への足がかりとなる要地だったことがわかります。また、浜松の各地に伝わる沢山の家康伝説から、家康公がどれほど浜松の人々に親しまれ、愛されてきたかがうかがえます。
浜松と家康公・
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