徳川家康公ゆかりの地 出世の街 浜松

家康公「伝」

浜松時代の周囲の人物

青壮年時代の家康公は、浜松城に在城していた17年間に、さまざまな人々との出会いや別れを体験しました。
当時の家康公と大きく関わった人物をご紹介します。

※人物イラストはイメージです

  • 織田 信長

    織田信長は尾張国の武将・織田信秀の嫡男。家督争いの混乱を収めた後に尾張国を統一。1560年には桶狭間の戦いで今川軍を破り、頭角を現しました。家康公は今川氏が敗れたのを機に織田信長と清洲同盟を結び、後の三方ヶ原の戦いでも織田軍から援軍を受けて共に戦いました。その後、1571年には姉川の戦いで信長・家康の連合軍が浅井・浅倉氏の連合軍に勝利。信長はその翌年に比叡山延暦寺焼討を強行。さらには、1573年に将軍・足利義昭を追放し、名実ともに室町幕府を滅ぼして、畿内を中心に独自の中央政権を確立。内政的には、検地、道路整備、撰銭令・楽市楽座などを手がけ、領国に繁栄をもたらしました。しかし、1582年に家来の明智光秀が謀反を起こし、信長は本能寺で自害しました。

    織田 信長
  • 徳川 信康

    家康公と正室・築山殿の間に生まれた嫡男で、1559年に駿府で誕生。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごし、桶狭間の戦いの後に岡崎城に移りました。そして、家康と信長による清洲同盟が成立後、1567年に信長の娘・徳姫と結婚。同年6月に家康公は岡崎城を信康に譲って浜松城に移り、信康は1570年に正式に岡崎城主となりました。しかし、信長に武田勝頼との関係を疑われ、1579年に切腹を命じられて、二俣城で自害しました。その後、家康公は信康を供養するために「清瀧寺」を建立。寺の名を与えたのも家康公自身です。

    徳川 信康
  • 徳姫

    徳姫は織田信長の長女で、1567年に家康公の嫡男・信康と結婚。しかし、信康や築山殿との関係がうまくいかず、徳姫は二人が信長を裏切って武田家と内通しているなどの罪状を綴った「十二ヶ条の訴状」を父親の信長に送り付けました。それが原因で、信長は信康の切腹と築山殿の殺害を家康公に命じ、二人は悲劇の最期を遂げたといわれています。信康亡きあと、徳姫は二人の娘を家康の元に残し、岡崎城を出て安土の織田家に戻りました。

    徳姫
  • 築山殿(瀬名姫)

    今川家の一門、関口義広の娘。1557年に今川家の人質だった家康公と結婚し、1559年に信康、1560年に亀姫が誕生。家康公が浜松城に移った後も、築山殿と信康は岡崎城に残りましたが、織田信長から武田氏と内通しているとの嫌疑をかけられ、信康は二俣城で自害。築山殿は家康公の命を受けた家臣に佐鳴湖畔の御前谷で殺され、西来院に葬られました。

    築山殿(瀬名姫)
  • 徳川 秀忠

    1579年に信康と築山殿が死に追いやられた5カ月後、家康と側室・西郷局との間に三男の秀忠が誕生しました。秀忠は浜松城で生まれたため、当時城内にあった五社神社が産土神(生まれた土地の守り神)とされ、五社神社は浜松城から現在の地に移し祀られました。1590年、秀忠は11歳で豊臣秀吉の人質として聚楽第に上洛しましたが、かなりの厚遇を受けていたようです。関ヶ原の合戦では、肝心の戦いに間に合わないという大失態を演じましたが、家康は秀忠に家督を譲ることを決意し、秀忠は1605年に江戸幕府の2代将軍として朝廷から征夷大将軍に任命されました。将軍時代には、大御所となった家康公とともに武家諸法度や禁中並公家諸法度を発布したほか、徳川体制の強化と大名の統制に力を注ぎました。

    徳川 秀忠
  • 井伊 直政(徳川四天王)

    今川氏の重臣・井伊直親の子として遠江の井伊谷に生まれた井伊直政は、父・直親が今川氏真に殺されてから各地を放浪。1575年に浜松城下で徳川家康に見出され、仕えることになりました。その後、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いなどで武功をあげ、のちに酒井忠次、本多忠勝、榊原康政とともに「徳川四天王」と称される程、家康の天下統一において重要な役割を果たしました。武田氏の滅亡後には、家康公から武田軍の赤備えと旧臣たちが与えられ、小牧・長久手の戦いで先鋒を務めた際には「井伊の赤鬼」と恐れられました。直政は「容顔美麗にして、心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い」と記録にあるように、勇猛果敢で才覚にあふれ、しかも眉目秀麗で、家康から重用されました。関ヶ原の戦いでは直政が一番槍として戦いの火蓋を切りました。しかし、関ヶ原の戦いで受けた傷が原因で、2年後に世を去りました。

    井伊 直政
  • 夏目 吉信

    夏目氏は、古くから松平(徳川)氏に使える譜代家臣でした。夏目吉信も先祖同様に徳川家に仕えていましたが、三河国で一向一揆が起こると、一向宗の門徒だった吉信は家康公と敵対します。その後、家康公が鎮圧に成功すると、吉信は捕縛され処刑されるところを、家康公の寛大な処置により許されます。家康公に命を救われた夏目吉信は、その恩義を生涯忘れることはありませんでした。岡崎城から浜松城に移った後、三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗した家康公は、浜松城に逃げ帰る途中で武田軍に追いつかれ、討死を覚悟で武田軍に対抗しようとします。吉信はそれを制止し、家康公の馬を槍の柄で叩いて浜松城へと送還させる一方で、自らは家康公の影武者となって武田軍に突撃。家康公を守って壮絶な最期を遂げました。

    夏目 吉信
  • 結城 秀康

    結城秀康は、1574年に家康公の次男として生まれました。母は築山殿の奥女中をしていたお万の方です。家康は築山殿に配慮して、身ごもったお万の方を家臣の本多重次のもとに預け、秀康は今切軍船の兵糧奉行や代官を勤めていた中村正吉の屋敷で生まれました。
    1584年の小牧・長久手の戦いの後、11歳の秀康は和睦の条件として豊臣秀吉のもとへ養子に出されました。秀吉は秀康を非常に可愛がりましたが、1589年に淀殿との間に嫡男・鶴丸が誕生したのを機に、今度は17歳で下総国の結城晴朝の養子に出され、家督を継ぎました。その後、関ヶ原の戦いで武功を挙げた秀康は、家康から68万石の加増を受けました。秀康は武勇に優れていた反面、慈悲深い性格も持ち合わせていたため、江戸時代以降も家康や秀忠から信任を得て要職を任せられましたが、1606年に病で逝去。享年34歳でした。

    結城 秀康
  • 中村 正吉

    中村家のルーツは源氏の末裔の武士で、1483年に現在の浜松市西区雄踏町に居を構えたといわれます。その住居地は現在も「中村家住宅」として残されています。戦国時代には今川氏の家臣として浜名湖の軍船を支配していましたが、18代の中村正吉は、1568年に家康公が遠江国に侵攻した際、舟を出して家康軍を迎え入れました。以後は家康公に仕え、今切軍船の兵糧奉行や代官を務めました。中村正吉は家康公からの信頼が厚く、1574年には中村家の屋敷で側室のお万の方が家康の次男(後の結城秀康)を産みました。

    中村 正吉
  • 武田 信玄

    戦国時代、現在の山梨県にあたる甲斐の国を治めた武将。風林火山の旗を掲げ、戦国最強の武田騎馬隊を率いて、「甲斐の虎」と恐れられました。21歳で家督を継いだ信玄は、隣国の信濃を平定後、駿河へと勢力を拡大。足利義昭の要請を受けて信長包囲網に参加すべく上洛を開始し、1572年に「三方ヶ原の戦い」で徳川家康を撃破。さらに西へと向かいましたが、翌年病に倒れ、病死しました。
    信玄の才覚に一目置いていた家康公は、その死を惜しみ、「信玄の死は、喜ぶべきものではない。私は若い頃から彼のようになりたいと励み、実益を得たことも多い」と家来たちに伝えたといわれています。三方ヶ原の戦いから10年後、武田家は織田信長と徳川家康の連合軍に敗れ、滅亡。家康公は、武田家の家臣たちを召し抱え、この軍事力を取り込み、武田軍を象徴する「赤備え」は、家康の四天王・井伊直政に受け継がれました。

    武田 信玄
  • 豊臣 秀吉

    尾張中村に生まれ、15才で武士を志して織田信長に仕えました。その後、戦功を重ねて信長に重用されるようになり、近江長浜城主に昇格。本能寺の変の際には毛利討伐の先鋒として備中の高松城を攻めていましたが、急きょ和睦していち早く京都に戻り、明智光秀を討伐しました。その後、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、大阪城を築城。1590年には九州の島津氏、小田原の北条氏を破り、さらに奥州を平定して天下統一を果たしました。統一後は太閣検地・刀狩・京枡の制定などを行い、大きな成果を得ました。その後、朝鮮・明国への侵略を企て、1592年から1598年にかけて文禄・慶長の役を起こしたものの失敗。1598年に病没しました。
    秀吉は16歳から18歳までの3年間、浜松の頭陀寺城の城主・松下氏に武家奉公していました。当時、引間城主の飯尾豊前守の娘・サキに謁見した際の様子が「太閤素生記」に記されています。さらに、1590年の小田原攻めの際にも浜松城に入城したという書状も残されています。

    豊臣 秀吉