家康公ゆかりの地には公共交通機関を利用して訪れることができます。
遠鉄電車・天竜浜名湖鉄道・遠鉄バスが乗り降り自由でお得なデジタル周遊券を利用して、
家康公ゆかりの地を巡ってみてはいかがでしょうか。
浜松駅発
凛とした空気が漂う浜松八幡宮境内に茂る「雲立のクス」。三方ヶ原の戦いで敗走してきた家康公がこの楠の洞に逃げ込み追手から身を隠していたところ、突然雲が立ち上がり、神霊が白馬に跨って浜松城へ飛び立ったのを見て勇躍した、という伝説からこの名がついたといわれています。樹齢1000年を超える御神木で、かつて家康公もこの木に武運を祈願したといわれています。
悲劇の最期を遂げた家康公の嫡男、岡崎三郎(松平)信康を供養するために建立された清瀧寺。枯れたことのない清滝が趣深く、秋には美しい紅葉を見ることができます。
二俣城は地理的に遠州平野の扇の要に当たる重要拠点で戦国時代には徳川・武田両氏の攻防の舞台となった要塞です。家康公が信長の命により長男・信康を切腹させられたといわれる悲劇の舞台として広く知られています。
気賀関所は、1601年に家康公が設けたとされています。江戸時代に全国に53カ所あった関所の1つで、東海道では箱根や新居と共に3大関所として重視され、江戸への武器の持ち込みなどを防ぐ役割を担いました。現在の建物は、江戸時代の史料を基に1990年に復元されたものです。
1572年、武田信玄と徳川家康が戦った「三方原の戦い」。三方原台地の一角には、この周辺が戦いの舞台となったことを示す碑が建てられています。
住所:静岡県浜松市北区根洗町1109
三方ヶ原の戦いで大敗を喫し、命からがら浜松城に帰りついたその夜、家康公は武田信玄に一矢報いるべく、鉄砲隊をひきいて夜襲をかけました。地理不案内な武田軍は混乱し、次々と犀ヶ崖の深い谷に転落し、多くの命を失ったと伝えられています。
また、ここではこの戦いによる死者を弔うための「遠州大念仏」が毎年お盆の時期に行われています。
住所:静岡県浜松市中区鹿谷町25-10
市役所の西側にある「鎧掛松(よろいがけのまつ)」は、三方ヶ原の戦いで敗れて浜松城に逃げ帰った家康公が、鎧を脱いでこの松に掛けたという伝説から、その名が付けられました。現在の松は3代目で、初代の松は浜松城内の堀の近くにあったといわれています。
住所:静岡県浜松市中区元城町103-2
遠江の経路拠点としては引間城が手狭であったことから、家康公は西南の丘陵地に大規模な築城を行いました。1570(元亀元)年に家康公が浜松城に入城した際に、引間を浜松と改めたといわれています。現在残っている遺構は天守曲輪を中心とする一帯で、荒く組まれた「野面積み(のづらづみ)」の石垣は、ほぼ戦国時代そのままの姿で残っています。現在の天守閣は昭和33年に、天守門は平成26年に建てられました。
元城町東照宮は1886(明治19)年に創建されました。石の鳥居の横に「曳馬城跡」と刻まれた史跡碑があります。社殿の扉や屋根には三つ葉葵の紋所が見られ、家康公を祭神としているお社であることを示しています。1568(永禄11)年に三河から遠江に入った家康公は今川方の拠点であった引間城を攻め入城し、城地を拡大し浜松城を築城しました。その後、引間城の跡地には米蔵十数棟が建てられました。
住所:静岡県浜松市中区元城町111-2
磐田駅発
1572年、三方ヶ原の戦いに敗れた家康公の窮地を救った酒井忠次が浜松城で打ち鳴らした太鼓と伝えられています。
旧中泉御殿表門は家康公の命を受けた伊奈忠次により1584年~87年ごろに築かれた御殿の表門とされています。
1572年、武田軍に敗れた徳川軍が一言坂で追いつかれ、殿を務めた本多平八郎が活躍をしたことで知られています。
悲劇の最期を遂げた家康公の嫡男、岡崎三郎(松平)信康を供養するために建立された清瀧寺。枯れたことのない清滝が趣深く、秋には美しい紅葉を見ることができます。
二俣城は地理的に遠州平野の扇の要に当たる重要拠点で戦国時代には徳川・武田両氏の攻防の舞台となった要塞です。家康公が信長の命により長男・信康を切腹させられたといわれる悲劇の舞台として広く知られています。
江戸幕府2代将軍、徳川秀忠公出生の地。家康公の側室・西郷局が秀忠公を産んだとき、産湯としてこの周辺の井戸水が使われたという伝説をもとに復元されました。ただし、秀忠は家康の下屋敷ではなく浜松城内の二の丸の北で生まれたという説もあるなど諸説あります。
住所:静岡県浜松市中区常盤町141-25
市役所の西側にある「鎧掛松(よろいがけのまつ)」は、三方ヶ原の戦いで敗れて浜松城に逃げ帰った家康公が、鎧を脱いでこの松に掛けたという伝説から、その名が付けられました。現在の松は3代目で、初代の松は浜松城内の堀の近くにあったといわれています。
住所:静岡県浜松市中区元城町103-2
遠江の経路拠点としては引間城が手狭であったことから、家康公は西南の丘陵地に大規模な築城を行いました。1570(元亀元)年に家康公が浜松城に入城した際に、引間を浜松と改めたといわれています。現在残っている遺構は天守曲輪を中心とする一帯で、荒く組まれた「野面積み(のづらづみ)」の石垣は、ほぼ戦国時代そのままの姿で残っています。現在の天守閣は昭和33年に、天守門は平成26年に建てられました。
元城町東照宮は1886(明治19)年に創建されました。石の鳥居の横に「曳馬城跡」と刻まれた史跡碑があります。社殿の扉や屋根には三つ葉葵の紋所が見られ、家康公を祭神としているお社であることを示しています。1568(永禄11)年に三河から遠江に入った家康公は今川方の拠点であった引間城を攻め入城し、城地を拡大し浜松城を築城しました。その後、引間城の跡地には米蔵十数棟が建てられました。
住所:静岡県浜松市中区元城町111-2
掛川駅発
16世紀初頭、朝比奈氏により築かれました。1568年、家康公は今川氏真のこもる掛川城を半年間の攻防の末、奪取しました。
15世紀末、朝比奈氏により築かれました。1568年の家康公による掛川城攻めにおいて今川方の出城となりました。
住所:掛川市掛川1138-24
悲劇の最期を遂げた家康公の嫡男、岡崎三郎(松平)信康を供養するために建立された清瀧寺。枯れたことのない清滝が趣深く、秋には美しい紅葉を見ることができます。
二俣城は地理的に遠州平野の扇の要に当たる重要拠点で戦国時代には徳川・武田両氏の攻防の舞台となった要塞です。家康公が信長の命により長男・信康を切腹させられたといわれる悲劇の舞台として広く知られています。
江戸幕府2代将軍、徳川秀忠公出生の地。家康公の側室・西郷局が秀忠公を産んだとき、産湯としてこの周辺の井戸水が使われたという伝説をもとに復元されました。ただし、秀忠は家康の下屋敷ではなく浜松城内の二の丸の北で生まれたという説もあるなど諸説あります。
住所:静岡県浜松市中区常盤町141-25
市役所の西側にある「鎧掛松(よろいがけのまつ)」は、三方ヶ原の戦いで敗れて浜松城に逃げ帰った家康公が、鎧を脱いでこの松に掛けたという伝説から、その名が付けられました。現在の松は3代目で、初代の松は浜松城内の堀の近くにあったといわれています。
住所:静岡県浜松市中区元城町103-2
遠江の経路拠点としては引間城が手狭であったことから、家康公は西南の丘陵地に大規模な築城を行いました。1570(元亀元)年に家康公が浜松城に入城した際に、引間を浜松と改めたといわれています。現在残っている遺構は天守曲輪を中心とする一帯で、荒く組まれた「野面積み(のづらづみ)」の石垣は、ほぼ戦国時代そのままの姿で残っています。現在の天守閣は昭和33年に、天守門は平成26年に建てられました。
元城町東照宮は1886(明治19)年に創建されました。石の鳥居の横に「曳馬城跡」と刻まれた史跡碑があります。社殿の扉や屋根には三つ葉葵の紋所が見られ、家康公を祭神としているお社であることを示しています。1568(永禄11)年に三河から遠江に入った家康公は今川方の拠点であった引間城を攻め入城し、城地を拡大し浜松城を築城しました。その後、引間城の跡地には米蔵十数棟が建てられました。
住所:静岡県浜松市中区元城町111-2