1965年東京都生まれ
公益財団法人德川記念財団理事長
浜松市大河ドラマ館名誉館長
浜松が東西文化のぶつかる地域であるということは、よく言われる。東京と大阪の、ちょうど中間点あたりという位置からも容易に察することができるし、鰻の焼き方でも東京流と大阪流が混じり合っている、といった事実にもそのことは現れているのだろう。
古来、歴史的に大きな役割を果たす人物というのは、そうした異文化が衝突し合う土地、いわば境界地域から出てくるのが常だった。わが国で言えば、信長、秀吉、家康という、天下統一のいわゆる三英傑となるし、西洋史でいけばアレキサンダー大王や、悪いところではヒトラーといったあたりが、すぐに思い浮かぶ。
徳川家康が、そうした歴史法則を知っていたはずもない。だが、浜松が色々な意味で、境界の地であるということは、意識していたはずだ。例えば浜名湖は、海と陸の境界ともいうべき汽水湖であり、浜松に移った徳川家臣団は、その恩恵にあずかるところ大であった。
何より、生国である三河の東方、駿河で人質という身分ながら武将たるべき教育を受けた後で三河に戻り、今度は三河の西側に拠点を置く織田信長の同盟者となって、浜松に移って東日本を代表する名門武将の武田信玄と対峙するという自身の履歴から、家康は自分が最前線という名の境界の地にいるのだと実感しないわけにいかなかったであろう。
家康は信長の忠実な同盟者として武田信玄、そして信玄没して後には、その息子の勝頼と何度も戦い、ついには武田氏を滅ぼしている。いや、まだ曳馬と呼ばれていた浜松(浜松、というのは家康の命名である)に入国する準備をする時から、武田家とは衝突していた。強豪の武田氏は、まさしく宿敵だったのである。
だが、その武田 — より正確には信玄を、家康は憎み恐れるのではなく、尊敬していた。それどころか、信玄病死の報を聞いた際には、「たいへん惜しむべきこと」「喜ぶべきではない」と哀悼の気持ちを家臣に漏らし、さらには「およそ隣国に強き武将がいる時は、自国も万事に油断なく心を用いるから、自然と国政も収まり武備も緩むことがない」と、隣りに強大な敵が存在していたことに対して、恨み言を言うのではなしに、あたかも僥倖であったかのように語ったのだ。
今風に言えば、ポジティブ・シンキングということになるのだろうが、突き詰めれば殺し合いが世の常という戦国時代にあって、強敵(つまり、自分の首を取りに来る相手)を尊敬するというのは、容易ならざる心の持ちようだったはずだ。
敵を敵と認識し、恐れつつも、これを憎んで罵り譏理、果ては侮蔑するのではなく、その力と長所とを認めて、尊敬する。このような複雑な心を持ち得たことが、家康の天下人への道を拓いた。何となれば、相手を尊敬することは相手を理解することに通じるからである。徳川家康が浜松の地で得たものは大きかったが、武田家との攻防を通じて得たこの「敵を知る」心構えこそが、最大の収穫だったかもしれない。