1970年岡山県生まれ
国際日本文化研究センター教授
浜松市文化顧問
浜松城跡の発掘調査について紹介したい。浜松城跡では、令和元年から、御殿があった旧元城小学校跡地(浜松市中区元城町)の発掘が進められている。この発掘で、御殿の遺構が掘り出され、往時のさまが、次々と明らかになってきた。
元城小跡の地下は、まさにタイムカプセルといってよい。長い年月にわたり、この浜松地域の「中枢」として使用された場所である。土に埋まったこの地面を掘ると、重要な歴史の証拠が続々と出てきた。なかでも、大発見が二つあった。浜松城本丸の北東隅の石垣の基盤部分が確認され、さらに、二の丸御殿の建物礎石と庭園の遺構もみつかった。
石垣というものは、隅っこが重要である。城の縄張りを復元する基準点になるからである。今回の発掘で、浜松城本丸の北東隅の石垣がみつかった。最大6段(高さ1.7m)が残っていた。この石垣の工法は古い。自然石を積んだ「野面積み」である。戦国時代は、戦が激しい。このように自然石を積んで、すばやく石垣を築いていた。この石垣のみどころである「算木積み」を、ぜひ、みていただきたい。算木積みとは、計算用の棒(算木)を交互に積み重ねるように、石材の長短を交互に積み上げる石積みの技法のことである。この石垣は、堀尾吉晴が浜松城主であった時代か、もしくは、それ以前に築かれたと考えられる。堀尾時代より古いとすると、家康時代の石垣ということになる。家康の外孫の一人がまとめたとされる『当代記』という書物には、家康が築いた浜松城は「惣廻リ石垣。其上、長屋立テラル」と特記されている。四周ぐるりと石垣の城で、そのうえ長屋(後世の多聞櫓)のような細長い建物があった、というのである。そのまま信じるわけにはいかないが、たしかに、そう書かれている。当時は、四方が石垣の城は、特に東日本では珍しかった。この石垣は、家康時代に築かれた「惣廻リ石垣」の一部である可能性も現時点では捨てきれない。今後の発掘や研究がまたれる。たとえ、これが「堀尾浜松城」の石垣であったとしても、石材は城の改築のときに、再利用されることがよくあるから、「家康浜松城」の石垣の石がこの中に含まれていてもおかしくはない。
石垣の脇には、崩落した石材がみられる点も重要である。崩れた石に交じって完全な形の土器(かわらけ)が残っている。石垣が崩れた後に鎮めの儀式が行われ、土器(かわらけ)を置いたと考えられる。この石垣は地震で被災し上部が崩れたとみられることも興味深い。
今回、発掘された二の丸、とくに、その西半分は、家康が浜松城時代に家族と住んでいた可能性の高い場所である。二の丸に接する場所には井戸があったことが分かり、底からは家康時代の焼き物のかけらが出てきた。ここは江戸時代から「御誕生場」と浜松城の絵図には記され、特別に区画がなされ、聖地的な扱いがなされていた場所である。二代将軍・秀忠が生まれたとされる。このあたりに、幼時の秀忠、さらには、家康が、近親者と寝起きしていた生活空間があったのかもしれない。
二の丸では、江戸時代の御殿の建物跡や庭園が確認された。遺跡は雄弁であり、何も知らずに通ればただの穴と石だが、ひとつひとつに意味があり、歴史のつながりがあり、世界観を変えてくれるものである。この場所は、浜松城が見える特等席にあたる。もちろん、この庭園前に座っていたのは、浜松城主である。浜松城は頻繁に城主が変わったが、徳川家康ゆかりの豊かな浜松の城主には、出世できそうな大名があてられた。それで浜松城主になると、江戸幕府の要職につくことが多かった。「浜松は出世城なり初松魚」(浜松出身の俳人・松島十湖の句)という俳句ができるくらい縁起のよい城と、浜松城がうたわれたゆえんである。
浜松城のこの重要エリアからは、戦国時代の天目茶碗が出てきた。注目すべきである。天目茶碗は当時、貴重品である。常人が口をつけられる代物ではない。ふつうに考えれば、家康の持ち物であり、重臣用・来客用に、これを使っていたのであろう。いずれにせよ、家康が、この茶碗を見ていた可能性は高い。いや、家康自身が使っていたが割れてしまい、破片が捨てられて埋まり、この発掘で我々の前に現れたのかもしれない。
浜松で紹介したい、とっておきの場所がある。元城町東照宮付近である。この場所こそが、浜松城の前身であり、家康が最初に浜松に入ってきたときの居城・引間城の跡である。家康は、がんらい今川方に属したこの引間城を手に入れると、城の縄張りの大拡張をはじめた。引間城の堀を西の高い丘まで延ばして城の面積をひろげ、信玄と戦える「大」浜松城をつくりあげた。城の拡張工事が終わるまでは、おそらく家康は、引間城のなか、この元城町東照宮のある高台に住んでいたと思われる。
家康にとって最大の惨敗とされる「三方ヶ原の戦い」も、この城の下の「玄黙口」から出陣している。また、負けて逃げ込んできたのも、この引間城の城門と伝わっている。境内の奥には、高く土を盛り上げた、土塁が残っている。この土塁の高さこそ、家康が信玄に抱いた恐怖の名残り、武田軍への防壁の残りである。歴史を知らずに見たら、何の変哲もない、「土の高まり」にすぎないが、知ることで面白い景色が見える場所である。
ここに来たのは家康だけではない。のちの豊臣秀吉も16歳のとき、この引間城に来て、運をつかんだ。秀吉は、当時の引間城主・飯尾(いのお)氏の前で、猿のマネをしながら栗を食べて大うけ。可愛がられたが、飯尾氏に属していた松下氏(浜松市南区の頭陀寺城主)に仕えたという。『太閤素生記』という史料に、その逸話が書かれている。家康と秀吉という、二人の天下人が交差したこの地は、まさに歴史的な出世運のパワースポットとされ、人気を呼んでいる。ここには、三方ヶ原の戦いへ出陣する際の家康と16歳の秀吉の像がある。家康像と秀吉像のあいだに立てば、天下人二人とスリーショットの記念写真が撮れる。浜松に来られた際には、ぜひ訪れていただきたい名所のひとつである。