1963年愛知県生まれ
奈良大学教授
浜松城跡保存活用検討会委員
(撮影:畠中 和久)
徳川家康は1570(元亀元)年に愛知県岡崎城から引馬城に移り、浜松城と名づけて本拠にした。その後1586(天正14)年に駿府城に移転するまで、家康は浜松城を居城に武田信玄と戦い、織田信長と同盟して天下統一を進めて領国を広げた。当時、大名が居城を移すのは、家臣たちが先祖代々の土地と結びついたのでとても難しかった。甲斐(山梨県)の武田信玄も、安芸(広島県)の毛利元就も本拠の移転はできなかった。そのなかで浜松城への移転を実現した家康の先進性は高く評価される。そして浜松城への移転が家康の未来を拓いた。
もともとの引馬城は、江戸時代には「古城」「蔵屋敷」などと呼び、現在、東照宮が立つ浜松城北東部にあった。ここには堀や土塁で囲んだ4つの曲輪があり、引馬城は並立的な館城を主体にした。東照宮の周囲には土塁と防御の急斜面・切岸がよく残り、中世城館の姿を観察できる。
今の浜松城の石垣は、1590(天正18)年から城主になった堀尾吉晴以降に築いたものが多い。しかし浜松城富士見櫓下石垣などに、家康時代にさかのぼる石垣があるので、家康時代から浜松城に石垣を築いたのは確実である。ただし『当代記』が記したように創築時に主要部の「惣廻石垣」が完成したのではなく、継続的に石垣を築いていったのだろう。
また家康時代の浜松城に天主(天守)があったと明示した文字史料はない。しかし元亀年間には畿内で御殿と櫓の機能を組み合わせた特別な建物・天主が現れていて、明智光秀も1571(元亀2)年に滋賀県坂本城で天主を建てていた(『言継卿記』)。家康は1566(永禄9)年の三河守への任官にあたって幕府や朝廷と交渉を重ねており、その後も織田信長の求めに応じて上洛したので、天主を備えた畿内の城を熟知していた。家康の浜松城は、ある段階に天主を建てたと推測してよいだろう。
浜松城は最高所に天主(天守)が立つ天守曲輪があり、その東側に本丸があった。当初の家康の御殿はこの本丸にあったと思われる。本丸の上位空間として天守曲輪(詰丸)を置く設計は織田信長の滋賀県安土城とも共通して、最も高い格式だった。本丸南側の正門「鉄門」前には四角い大きな空地があり、工夫した出入口・馬出しと判断できる。馬出しは家康が戦った武田氏の城でいち早く発達しており、家康が武田氏の城に学んで取り入れたとわかる。家康は冷静に信玄の強さを分析していた。
浜松市役所北側の二の丸の発掘では、江戸時代の藩主御殿や庭園が見つかり、2代将軍徳川秀忠の誕生に関わる井戸を発見している。さらに本丸を守った堀と石垣も検出していて、浜松城の堅固さを実感できるようになった。今後の整備が期待される。
このように浜松城は、家康時代に確立した城の基本構造がよく残る点に大きな特徴があり、徳川家康を城から考えるのに最も重要な位置を占める。関連する浜松市の二俣城・鳥羽山城とともに、浜松城の歴史的価値はきわめて高い。