家康公が出世の礎を築いた浜松城。江戸時代に入ってからも歴代城主の多くが後に幕府の重要ポストに登用されたことから、いつしか「出世城」と呼ばれるようになりました。
浜松城には1570年に家康公が入城して以来、25代の城主が在城しました。その中から幕府の要職に就き、立身出世を果たした主な城主をご紹介します。
まつだいらいずみのかみ のりなが
松平和泉守乗寿
在城期間 1638〜1644年
幕府の役職 老中
1614年の大阪冬の陣に出陣して戦功を挙げ、1638年に美濃国岩村から遠江浜松へ加増移封されました。1642年には家綱付きの老中に命じられ、家綱が4代将軍になると正式に老中の一人として政務を手掛けました。浜松在城時代には五社神社・諏訪神社の造営を完成させましたが、当時から老中職を兼ねていたため、浜松にいることはあまり多くありませんでした。
おおたせっつのかみ すけつぐ
太田摂津守資次
在城期間 1671〜1678年
幕府の役職 寺社奉行、大坂城代
幼少期から家光に仕え、父・太田備中守資宗から浜松城主を承継。1676年には寺社奉行となり、五社神社や鳳来寺の修復にもあたりました。親子二代とも寺社に通じ、父親の資宗が江戸送り地蔵で知られる米津町の安泉寺を創建。浜松市内には二代の支援を受けた寺社が数多くあります。1678年には大坂城代に任じられ、摂津国・河内国・和泉国へと所領を移されました。
まつだいらいずのかみ のぶとき
松平伊豆守信祝
在城期間 1729〜1744年
幕府の役職 大坂城代、老中
松平家は徳川家との関係が深く、信祝も少年時代に5代将軍綱吉へのお目通りが許されています。奏者番、大坂城代、老中などの要職を歴任し、8代将軍吉宗からの信頼も厚く、享保の改革にも参与して幕政を動かしました。1729年に大坂城代を任ぜられた後に浜松城主となり、在城中の1735年には浜松城下に目安箱を設置しています。信祝は文化人としても優れた才能を発揮し、浜名湖周辺の古刹や城跡、系図などの調査を実施。後の遠州国学の土壌を築きました。
いのうえかわちのかみ まさつね
井上河内守正経
在城期間 1758〜1766年
幕府の役職 寺社奉行、大坂城代、京都所司代・侍従、老中
井上家の先祖は秀忠の乳母の子。正経は13歳で父の跡を継いで常陸国笠間城主となり、寺社奉行、大坂城代、京都所司代・侍従を経て1758年に浜松城主となりました。その後、浜松に在城中の1760年に老中となりましたが、1766年に病気で他界しました。皇族に信頼され、宮家との結びつきも深かったといわれています。
みずのえちぜんのかみ ただくに
水野越前守忠邦
在城期間 1817〜1845年
幕府の役職 大坂城代、京都所司代、老中
1794年に唐津藩の藩主・水野忠光の次男として江戸に生まれ、19歳で家督を相続。24歳の時に老中を目指してエリートコースに乗るべく浜松藩への転封を自ら願い出て、1817年から1845年に至る28年間浜松に在城。その間、大坂城代、京都所司代、老中に栄進したため、実際は江戸での生活が大部分でした。 老中時代の1841年には天保の改革に着手し、農村復興を目的とした人返令や、株仲間の解散、地方に分散していた直轄地を集中させる上知令、金利引き下げ政策など、多くの法令を定めましたが、強圧的な改革が非難の的となり、浜松でも藩政の改悪が原因で農民騒動などが起こりました。忠邦はその後失脚し、1845年に出羽国山形に転封。1851年に58歳で死去しました。