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  • 二俣城跡 ( ふたまたじょうあと )

    難攻不落の山城。家康が嫡男信康を切腹させた悲劇の舞台に

    二俣城は、天竜川と二俣川という2つの天然の堀に挟まれた、遠江攻略の要地に建つ堅牢な山城でした。戦国時代の初頭に今川氏が築いた城館がはじまりで、今川氏が衰えたあと、徳川家康と武田信玄が、難攻不落のこの城を手中にしようと激しく攻防しました。
    元亀3年(1572年)大軍を率いて遠江に侵攻した信玄は、10月に二俣城を包囲します。城兵の数は千2百ほど。一方武田軍は3万近く。それまで徳川方の城を難なく落してきた信玄でしたが、しかし二俣城は攻めあぐねました。   この城には井戸はなく、天竜川の水を汲み上げており、その井楼を破壊して水を絶つと、ようやく城代は降参し、開城しました。
    二俣城攻略は、遠江を平定しつつあった家康に対する信玄の優位を決定的なものにし三方原の戦いでの家康の大敗に繋がっていきます。
    ほどなくして信玄が死ぬと、家康はただちに二俣城奪還しようとしましたが、落とせず撤退。天正3年(1575年)に長篠の戦いで織田信長との連合軍で武田に大勝したあと、再び二俣城を攻めますが、やはりなかなか落せず、城兵の安全な退去を条件に開城させました。その後武田軍がたびたび攻撃を仕掛けますが、落城することはありませんでした。
    苦労して取り戻した二俣城は、その後、家康にとって悲劇の舞台となります。
    天正7年(1579年)家康の同盟者で、飛ぶ鳥を落す勢いで天下を統一しつつあった織田信長のもとに、家康の嫡男信康と正妻の築山殿が武田に内通しているという知らせがもたらされました。信長は怒り、家康に2人の処刑を求めます。内通の信憑性は疑わしいものでしたが、そのときの家康は、信長には逆らうことができない立場にありました。
    家康は築山殿を殺害し、身を切るような思いで信泰に切腹を命じました。
    9月15日、21歳の若武者は、二俣城で自害。介錯をした服部半蔵は、涙のあまり刀を降り下ろせず、他の者が行ったという逸話が残っています。
    現在、城の一帯は公園として整備され、野面積みの石垣を残す天守台や大手門、堀跡などを見ることができます。

    アクセス 西鹿島駅から山東方面行きバスで約10分、「城下通」下車、徒歩15分/ 天竜浜名湖鉄道「二俣本町駅」から徒歩約10分
    電話番号 053-925-5845(天竜観光協会)
    所在地 浜松市天竜区二俣町二俣
    駐車場 あり
    バス駐車場 なし