徳川家康

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▲徳川家康

浜松城は天下とりの足がかり

徳川幕府を開いた名将徳川家康は、29歳のときから45歳で駿府城に移るまで、浜松城を居城にしました。1568年、三河から東進し、今川領の制圧を開始した家康は、駿府に攻め込んできた武田信玄の侵攻に備え、遠州一帯を見渡せる三方ヶ原の丘に着目しました。

天下をとるためには、まず信玄を倒さなければならないと判断した家康は、1570年、それまで住んでいた岡崎城を長男の信康に譲り、三方原台地の東南端に浜松城を築城、駿遠制圧の拠点としたのです。ちなみに、「浜松」という地名は、このとき家康が名付けたのです。

徳川300年の礎となる試練の時代

大敵武田信玄と対峙し、信長の死後は豊臣秀吉との関係に腐心した浜松城での17年間。有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもこの期間中の出来事で、特に三方ヶ原の合戦は、関ヶ原の合戦以上の激闘であったと伝えられています。

家康にとって浜松時代は、徳川300年の歴史を築くための試練の時代だったと言えるでしょう。

三方ヶ原の合戦

三方ヶ原の合戦は、1572年、武田信玄と徳川・織田連合軍が浜松市郊外の三方ヶ原台地で激突した戦いで、家康の生涯で最大の敗戦となりました。

武田軍3万人に対して家康軍はわずか1万人足らず。家臣に化けて命からがら浜松城に逃げ帰った家康は、敗戦直後の意気消沈した自分の顔の絵を描かせ、『しがみ像』といわれるこの絵を生涯大切にし、敗北を自らへの戒にしたと伝えられています。

ゆかりの地、史跡が数多く

三方ヶ原の合戦の夜、家康が犀ヶ崖で夜営していた武田軍を奇襲し、崖に白い布を架けて橋と見せかけて敵兵を崖下に転落させたと伝えられる場所はいまも「布橋」と呼ばれています。

また、逃げ帰る途中に空腹をおぼえて飛び込み小豆の餅を食べていましたが、追手が迫ったために代金も払わず飛び出した茶屋があった場所を「小豆餅(あずきもち)」、茶屋の老婆が追いかけて代金を受け取った場所を「銭取(ぜにとり)」と呼ぶようになったと言われているなど、浜松市内には三方ヶ原の合戦にまつわる地名が残っています。

また、正室の築山御前を殺めた太刀を洗った太刀洗の池や、その霊廟のある西来院、犀ケ崖資料館など、浜松城をはじめ、ゆかりの地や史跡がたくさん。市内には、それら13ケ所の名所旧跡をたどる歴史ロマンあふれる『家康の散歩道』があります。

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