オートバイ

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▲オートバイ

世界に君臨する3大メーカーを育てたのは、
進取の精神に富んだ遠州の技術者でした。

今、日本はもちろん、世界で走っているオートバイのほとんどが、ホンダ、ヤマハ、スズキという、遠州を発祥の地とする3大メーカーのものとなっています。便利性だけではなく、風を切って走るロマンあふれるマシンとして愛されるオートバイ。その世界は、遠州人独特の、未知への好奇と進取、そして、模倣からより良い物を創造していく気質が育て上げたものと言っても過言ではありません。やがて世界へと発展していった、浜松のオートバイ物語をひもといてみましょう。

本田宗一郎伝説。「世界一のオートバイを作るのだ」

日本では明治42年(1909)からオートバイが製造されていましたが、いずれも外国製品の模倣であり、一般市民には手の届かない高価なものでした。日本で独自に設計され、比較的安価に製造できる製品は、本田宗一郎の試作エンジンが第1号であり、国産オートバイの歴史はここから本格的に始まりました。

本田宗一郎は磐田郡光明村(現在の天竜区山東)生まれ。世界的な自動車・二輪車メーカー『ホンダ』を起こした日本が誇る技術者です。東京の『アート商会』という自動車修理工場で伝説の修理工として名をはせた後、昭和21年(1946)、浜松で「本田技術研究所」を創業。軍用通信機用のエンジンを流用した、原動機付自転車(愛称「ポンポン」)を誕生させました。それが、世界最大のオートバイメーカーとなる『ホンダ』誕生の、そして、浜松でのオートバイ産業の萌芽の瞬間でした。

やがて、本田氏は、独自のエンジンの設計製造に着手し、昭和22年(1947)に「A型エンジン」を完成。翌23年(1948)には本田技研工業を設立し、本格的なオートバイ製造を開始しました。BMWやノートンなど、欧州の一流車を手当たり次第に分解し、開発に取り組みます。「こんな精巧なものは一生かかってもできない」という所員のつぶやきを尻目に、本田氏だけが「世界一のオートバイを作るのだ」と言い続け、ついに昭和24年(1949)、車体を含めすべて宗一郎自身が開発した『ドリーム号』が完成。浜松で生まれた本格的なオートバイの第1号となりました。

オートバイブームでメーカーが林立。伝説の名車が続々登場。

本田技研工業は昭和25年(1950)に東京へ移転。本田氏が去った後、遠州でのオートバイ産業はますます盛んになっていきました。遠州人の気質には、進取のほかにもうひとつ、いいものはすぐに真似るという模倣性と、模倣するだけでなくそれをより良いものにしていくという情熱があったのでしょう、従業員が数人という中小の鉄工所までがオートバイ製作に乗り出し、一躍オートバイブームが沸き起こったのです。

その中小メーカーを吸収しながら、高い技術力でホンダを追ったのが、鈴木織機と日本楽器製造でした。鈴木織機は、「パワーフリー号」を発売。その後、鈴木自動車工業となり、国産初の軽自動車を発売し、自動車メーカーとして発展していきます。日本楽器製造は、名車「YA-1」の生産を開始し、それをきっかけにヤマハ発動機が発足しました。

メーカー、技術者たちが切磋琢磨し日本を世界一の生産国に。

昭和35年(1960)、日本製のオートバイの生産高は世界1になります。その影には、浜松に林立した中小メーカー、大メーカーの激しい競争がありました。遠州の技術者たちが競い合い、切磋琢磨しながら、エンジン、ボディともその性能を飛躍的に向上させてきたことによって、日本は世界一のオートバイ生産国となったのです。

現在、世界中のオートバイのシェアナンバー1はホンダ。その後、ヤマハ、スズキと続きます。かつてのように、日本のオートバイが世界中のオートバイの9割を占めるとはいえなくなっていますが、日本の3大メーカーが世界の3大メーカーであることは変わりません。そして、浜松が、日本におけるオートバイのふるさとであることも変わらない事実です。

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